小倉さんがおっしゃるとおり「自衛隊違憲論」は「70年代ころまでの平和運動の『常識』」でした。それがいまは平和運動家も平和運動の参加者の多くも「自衛隊合憲」を当たり前の前提として議論するというところまで来てしまいました。どうしてか? この40年ほどの間(とりわけこの10年ほどの間)にすっかり日本は右傾化してしまったということでしょうね。社会が「根こそぎ」状態で右傾化してしまったため「右」にあるものを「右」と認識できなくなった、ということがあるでしょう。その責任は「左翼」にも当然あるでしょう。というよりも、「左翼」の責任が大きい、と私は思っています。
 
私はかつて辺見庸の言葉を引いて次のように述べたことがあります。
 
「わが国の風俗、人びとの感性(生活スタイル、思想までも含む)は、70年(昭和45年)前後を分水嶺として決定的といってよいほど変容した。(略)なにが変容したのか。現代について「単独発言」を続ける、作家の辺見庸氏はいう。『まっとうな怒りをせせら笑い、まあまあととりなして、なんにもなかったように見せかける(略)。記憶するかぎり、老いも若きもこんなにも理念をこばかにし、かつまた、弱きを痛めつけ強きを支える時代ってかつてなかった。これほど事の軽重をとりちがえながら賢し顔を気取っている時代もなかった』。彼は、そこに「鵺(ぬえ)のような全体主義化」を感じとる(『眼の探索』)。ひとことで「保守化」というが(現に私もそのようにいったが)、その様相は「鵺」のようにまがまがしく、うす気味悪く、為体(えたい)がしれない。30年の後、時代はここまできた。」(2003年6月
 
上記の事態は「左翼」も例外ではなかったのです。「左翼」も例外なく蝕まれていった。現在、理念的な「左翼」がほとんどいなくなってしまったということと相似形の事態ということができるでしょう。私が「『左翼』の責任が大きい」と言うのはそういうことです。だから、小倉さんの理念的な「絶対平和主義」の話は新鮮に響くのです。
 
とはいうものの、小倉さんの話は少し難しい。聴衆の反応はどうだったのでしょう? それが気になるところです。果たして「自衛隊合憲」論の平和論者に理解されたのでしょうか?
 
絶対平和主義は何処に?(小倉利丸 2014-9-2)
 
イスラエルのガザへの空爆と地上からの侵攻は、イスラエルによる「個別的自衛権」の行使だということを私たちはしっかりと認識しておく必要がある。日本が個別的自衛権を行使する場合であっても、イスラエルがやってきたことと同種の武力行使がありえることだということを踏まえれば、現在の集団的自衛権論議のなかで、個別的自衛権を当然のように合憲とみなして議論の埒外に置くのではなく、「自衛権それ自体」を根本的に疑問に付すということに立ち戻るべきだ、ということである。言い換えれば、集団的自衛権を解釈改憲で合憲にしようとする安倍政権の態度に対して、個別的自衛権も含めて自衛のための武力・戦力の保持の違憲性を正面から問い、平和主義を軍事力(軍隊)に依存しない立場として、いかにして人々の共有認識として確認しうるかを考えるべきだと思う。
 
●9条の解釈
 
憲法9条を改めて確認してみよう。
 
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
 
この条文をすなおに読めば、憲法9条は戦争に関する5つの禁止規定を明記している。
(1)国権の発動としての戦争を放棄する。
(2)武力による威嚇を放棄する。
(3)武力の行使を放棄する。
(4)軍隊その他の「戦力」は保持しない。
(5)交戦権は認められない。
 
自衛隊はその創立当初からあきらかに、少なくとも威嚇効果をもつ戦力としての組織実体を有することを意図していたから、条文と対照して現実の自衛隊の実態を判断するとすれば、自衛隊を合憲とすることはできないことは明かである。その上で問題は、以下の点にある。
 
(1)この率直な解釈が政治的な解釈によって退けられ、歴代政府は、潜在的(威嚇能力)および顕在的戦力の実質を有している自衛隊を合憲であるとする解釈をとってきたこと。
(2)日本に駐留する米軍を9条の埒外に置くことができるという解釈によって、武力と戦力の実質的な保持を実現してきたこと。条約は憲法を越えられないにもかかわらず、日米同盟を前提とした地理的な(日本列島)の日米の軍事力の配置という観点からすれば、日米同盟は、憲法を超越する特権性を獲得しており、これが常態化しているということ。これを憲法の骨抜きというふうに解釈することもできるが、むしろ私は、これが憲法の「解釈」という機能の本質であって、戦後憲法の限界を意味しているとみるべきだと思う。
(3)これらの戦後日本の「軍事」構造を正当化することへの歴代政府の加担を可能にしてきたのは、この国の有権者が「民主主義」の形式的な手続きを通じて、憲法を超越する政府の軍事・防衛政策に正統性を与えてきたということ。ここに有権者、あるいは主権者の政治責任問題があると私は思う。
 
以下、長文なので省略させていただきます。全文は上記の小倉さんのブログをご参照ください。
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