辺見庸日録28」(2014/07/30~2014/08/01)から。

ガザ虐殺の死者が1200人をうわまわり、負傷者は7000人をこえた。もしレヴィナスがいま生きていたら、どう言っただろうか。「〈砕かれた世界〉あるいは〈覆された世界〉といった表現はありふれ、凡庸なものになってしまったにせよ、それでもなお、あるまがいものではない感情をいいあらわしている。できごとと合理的秩序との不一致、物質のように不透明になった精神のあいだで相互に交流するのが不可能になったこと、そして論理の多様化がたがいに不条理をきたし、私はもはやあなたとはむすびあえないようになったこと…たしかに、ひとつの世界のたそがれにあって、世界のおわりという古い強迫観念がよみがえる」と、グズグズと書かれたのは、いまから67年もまえのことなのだ。アーレントが生きていたら、アドルノが生きていたら、なんと言ったか。パレスチナの少年にガソリンを飲ませ、焼き殺した所業について。パレスチナ国際義勇軍の編成が呼びかけられたかもしれない。元気だったらわたしもパレスチナ入りをめざしたかもしれない。サルトルも国際義勇軍に賛成しただろう。オーウェルはそれに参加しただろう。ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミンは国際義勇軍結成にかんする知的なメッセージを送ったかもしれない。ソール・ベローはノーコメント。堀田善衛は国際義勇軍に心情的に賛成しつつ、みずからは参加できない苦渋を、キザで無害なエッセイにして、スペインあたりから朝日新聞夕刊文化面に寄稿しただろう。それでも暴力の連鎖には反対だとか。吉本隆明は「ナンセンス!スターリニストども!」と罵ったろう。カネッティは『目の戯れ』の続編を書いたろう。ツェランはまたも自殺したかもしれない。世界はまだ砕かれず、覆されてもいない。世界は凡庸でもない。また再びのユダヤ人迫害への環境ができつつある 2014/07/30
 
ガザの死者が1300人をこえた。いま、手をこまねいてそう言うことにどんな意味があるのだろうか。他者が理不尽に殺されることについて、それを放置するかぎり、わたしは有罪でありうるのか。切実にそうおもうことができるか。「他者の死はわたしのことがらである」のか。とまらない虐殺に、口とはうらはらに、退屈なまなざしをむける現存在とはなんだろうか。(2014/07/31
 
ガザの虐殺。死者は1400人をこえた。おなじことをイスラエルがやられたら、報復として100倍以上の人間を殺すだろう。ばあいによったら、核兵器をつかうのもためらわないかもしれない。イスラエルとは何か。かれらの「出自」をきびしく問うべきであろうか。かれらを産んだ子宮の闇を知らなければならないのか。出自のみに、現在の原因があるのだろうか。そうだろうか。虐殺をつづけるイスラエルの「自衛権」を公然と支持し、武器、弾薬を補給する米国。もっぱら米国の意を受けて集団的自衛権行使を急ぐニッポン「ニッポンのイスラエル化」の声が米欧にでてきている。むべなるかな。ルールはない。なにもなくなった。言葉は魂を失った。けふ、こんなメッセージを受けとった。この漂白されつくしたプラスチックの欠片のような記号の羅列こそ、ガザのひとびとにむかうべき心をこわしている。透明なクラスター爆弾。「辺見庸様 管理者があなたにアプリケーションの割り当ての許可を求めています。割り当てられたアプリケーションはあなたの購入履歴に表示され、それとともに、ご使用のデバイスにインストールすることが可能になります。あなたが割り当てを許可するためには、以下のURLにアクセスしてください」。(引用者注:左記はいうまでもなく「言葉は魂を失った」隠喩の一例ということでしょう)(2014.08.01
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