26日のエントリで『南京!南京!』の日本語字幕版をご紹介させていただきましたが、同映画を観たという人から『南京!南京!』を基本的に評価しながらもラストシーンで主人公格の日本兵が自殺する場面について「このような行いをした日本兵が実際にいたのかと私はいぶかしげにみています」というレスポンスがありました。この批評者は陸川(ルー・チューアン)監督と同世代の人のようです。だから、同世代の者として『南京!南京!』という作品の出来具合について同世代的感覚で批判的にコメントする気になったのかもしれません。それはそれでよいのですが、同批評は少し的が外れています。批評者はおそらくドキュメンタリーを「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された」(wikipedia『ドキュメンタリー』)記録映画と解釈して、ドキュメンタリーにフィクションを持ち込む陸川監督の手法を批判しているのでしょうが、批評者は、報道のありかたとドキュメンタリーの違いについて認識が不十分であるといわなければならないでしょう。
 
左記のウィキペディアの記事は、「社会問題を取り上げるという点においてはドキュメンタリーも報道も同じだが、ドキュメンタリーは制作者の主観や世界観を表出することが最優先順位にあるのに対して報道は可能な限り客観性や中立性を常に意識に置かなければならないという違いがある」という森達也監督の言葉を紹介して両者を混同しないよう説いています。批評者にはドキュメンタリーと報道の違い、さらにはドキュメンタリーとフィクションの違いについて改めて認識を深めていただきたいものだと思います。
 
以下、陸川監督と同世代の批評者に宛てた私のリプライとドキュメンタリーとはなにか。日本の代表的なドキュメンタリー作家として著名な土本典昭監督(故人)がかつて山形国際ドキュメンタリー映画祭スタッフのインタビューに応じて語った『戦ふ兵隊』(亀井文夫監督、1939年)のあるエピソードを巡っての挿話を書き留めておきたいと思います。土本監督が語る以下のエピソードは、私は、同監督のいう「ドキュメンタリーの核心はフィクションである」ということと同じことを言っているように思います。
 
ある批評者への私のリプライ
 
『南京!南京!』のご感想を拝読しました。その中で『南京!南京!』を全体として評価しながらも映画のラストシーンで主人公格の日本兵が自殺する場面について「このような行いをした日本兵が実際にいたのかと私はいぶかしげにみています」というご感想を述べられていますが、私はこの場面は陸川監督のフィクションだろうと思っています。
 
陸川監督はやはりラストシーンの南京「攻略」を祝う日本軍の祝賀パレードのシーンについて「ここで表現したかったのは戦争がいかに人の魂をコントロールするかということ」だと述べた上で、「異なる民族の文化を被侵略者の廃墟の上で踊らせる」構想をうとうとしながら夢で見たと語っていますが、もちろんこのラストシーンもフィクションですね。
 
ただし、ここで私のいうフィクションとは「事実とは反事実をふくむ」「事実とはしたがって異同そのものである」(辺見庸「日録27」2014/07/24)という意味でのフィクションです。
 
たしかゆふいん文化・記録映画祭の折に、いまはもう故人になられたドキュメントの大御所の『水俣』の映画監督の土本典昭さんが「ドキュメンタリーの核心はフィクションである」という趣旨のことをおっしゃっておられたように記憶しているのですが、そういう意味でのフィクションです。
 
事実としては私も良心の呵責に苛まされて日本兵が自殺したという例は知りません。
 
土本典昭監督インタビュー(山形国際ドキュメンタリー映画祭 1995年10月3日)抜粋:
 
映画の文体とキャメラワークについて(見出しは引用者)
 
つい最近、病床の瀬川さん(引用者注:瀬川順一さん。『戦ふ兵隊』のカメラ助手)をお見舞いにいったんですが、本当にドキュメンタリーにとって一番大事なことを話して頂いたんです。そこでも何十回と聞いた、『戦ふ兵隊』のあるエピソードを巡っての話です。多分、瀬川さんの五十年前からの一貫した自問自答があるんです。
 
具体的に話しましょう。『戦ふ兵隊』の撮影にこういう出来事があったというんです。撮らなかったシーンの話ですから、映画には勿論ないんです。あくまで瀬川さんのロケ現場での忘れ難い記憶ですが。
 
彼の話はこうです。日本軍がひとびとを苦しめ、家を焼き払ったりした村を通り過ぎたあと、たまたま亀井さんが畑にいた子供を見つけて掴まえ、抱いて、「三木君、コレを撮ってよ」と言ったんだね。かれは助手だったからキャメラの脇で、いつでもクランクを回せるようにしていた。しかし、三木さんはどうしても撮ろうとしなかった。その撮れない理由に「だって亀井君、きみの手が入るじゃないか」と言い、亀井さんは「手が出てもいいから撮れ」。瀬川さんによれば三木さんは臆病で"有名"だったそうですが、顔をこわばらせて撮ることを拒否したというんですね。
 
その晩に激怒のおさまらない亀井さんと三木さんの抗弁のやりとりが果てしなく続いて言葉では三木さんがやりこめられた。けれども納得してはいない、三木さんは。亀井さんは「僕が編集すれば、戦争の恐ろしさをあの子の表情からだせるんだ」 「あの顔は使えるんだから、僕の言う通り撮ってくれればいい」ということだったらしい。
 
三木さんは「僕には撮れない」と譲らない。「僕にはできない」ってね。この論争が瀬川さんの一生のこだわり、自分のキャメラマン論の根底にあったというんですね。
 
瀬川さん自身、四十歳台くらいまでは、「亀井さんの言う通り撮ってもよかったんじゃないか」 「撮れと監督に言われたものは撮って、そのラッシュで決めればいいじゃないか」と思ってきたけれども、人生後半になって三木さんの理屈にならない拒否感覚みたいなものが理解できるようになったと言われる。やはりキャメラマンには「撮れといわれても、どうしても撮れない事がある、三木さんはどうも正しかったと思うようになった」と。さらに最近、瀬川さんの記憶が鮮明に蘇ってきたことがある。それは自分が招集されて兵士だった時、占領地でバッタリ元の職場の映画監督とキャメラマンに会った時のことらしい。瀬川さんは「もうその人たちも亡くなったから言うが」といって、あるシーンのために中国兵をわざと逃がして、機関銃で撃ちまくったという話を彼等から聞かされたというんです。「機関銃って撃ってもなかなか命中しないものなんだね。バタバタ倒れる敵兵という風にはいかなんだ」と。瀬川さんは先輩キャメラマンが中国兵捕虜を映画のために殺したのか!と慄然とされたそうだ。しかも、それを平然と自分に話しをする神経はなんだ。「これが映画人か、恐ろしい、恥ずかしい」と思ったが、また、忘れようともしてきたと。瀬川さんもほとんど忘れかけていたが、三木さんの理屈にならない理屈の先を突き詰めていく内に、その記憶は蘇ってきたそうです。これははじめて聞く話でした。
 
二年か三年の兵役を終えて、瀬川さんが三木さんについた仕事が『戦ふ兵隊』だったんでしょう。「亀井さんと三木さんの論争をふりかえって見ると、こっちが加害者、侵略者側というのが三木さんの根底にあったんだ」。つまり、瀬川さんの言ですが、「戦場の記録映画班はみな従軍服、軍服に似たものを着せられているし、キャメラはレンズは光るし、鉄砲みたいな武器に似ている。それを三脚につけた前で、抱きすくめられたら誰でも怖い。中国の子供にとって、きっと僕らも日本兵に見えた。殺されると思った顔だった」。
 
三木さんには、被害者を写すのに加害者側からは撮れなかったのだと。その点、亀井さんに、あの時、自分らは加害者側だという意識があったろうか、無意識にせよ、その演出には差別 があったのではないか、二つの記憶が結びついて恐ろしい輪になってしまった。つまり、「キャメラマンとして、どうしても撮れないという肉体がある」ということを言いたいんですね。いわば遺言ですよ。キャメラマン歴六十有余年の瀬川さんの。
 
劇映画の世界はよく知らないんですけど、瀬川さんの若い時代、監督は"天皇"っていわれてる人もいたよね。その監督の指示は命令と同じだった。だけど「身体が言うことを聞かなくなる」というのは、実は深い本質的な知性なのではないか。体のなかに染み込んだ知性というか。
 
キャメラマンが一旦撮ったカットは、人にどう使われても文句が言えない、撮ったのは自分だから。瀬川さんが後輩に言いたいのは、キャメラマンは「カメラ番」じゃないという言葉の実質、精神を言われたと。五十年前に及ぶ亀井・三木論争へのこだわりを突き抜けて、自分の答をだされた。戦場でのいわば耳打ちされた同輩の話の記憶まで引き摺り出して、正当に三木さんに敬意を表し、同時に、いわゆる厭戦作家と言われる「亀井神話」まで突き刺してしまった。そういう気がして、瀬川さんからキャメラマン論の仕上げをして頂いた感じ…。僕は粛然としましたね。
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