澤藤統一郎弁護士が被告として訴えられているDHCスラップ訴訟の第1回口頭弁論は8月20日に開かれる予定ですが、その第1回口頭弁論が開かれる前から同訴訟は驚くべき展開になっているようです。裁判前から原告(吉田嘉明DHC代表)は訴状のほかに「準備書面1」を提出し、被告と裁判所に次のような通告と注意喚起なるものをしてきたということです。
 
被告への通告「本件は既に訴訟係属しており、原告の請求に対する反論は訴訟内で行うべきであり、訴外において、かかる損害を拡大させるようなことをすべきでない旨本準備書面をもって予め被告に通知しおく」。
 
裁判所への注意喚起「裁判所にも損害が拡大されている現状について主張しておく」。
 
およそ尋常な主張とはいえないでしょう。裁判を提起されれば被告たる者は訴訟外での「表現の自由は制約される」という驚くべき主張。こんな無茶苦茶な主張が通るようであれば、権力犯罪であれ、民事事件であれ、金のある者は、裁判さえ提起すれば自分への批判を封じることができるということになってしまいます。こんな道理に外れた主張を道理を裁く裁判という場に持ち出して平然としている。その原告(弁護団)の民主主義感覚の絶対零度以下ともいうべき欠落には被告ならずとも呆然、いや慄然とせざるをえません。
 
その経緯について述べているのが「この頑迷な批判拒否体質(2)-『DHCスラップ訴訟』を許さない・第6弾」ですが、ここでは副題が「表現の自由を脅かす高額《口封じ》訴訟」という今回の『DHCスラップ訴訟』そのままの『ジャーナリストが危ない』(編者:田島泰彦ほか。花伝社。2008年)という著作の紹介をされている澤藤弁護士の同シリーズ第7弾の記事をさらに転載、紹介させていただこうと思います。『DHCスラップ訴訟』のなんたるかを理解するには格好の解説になっているように思います。
 
この頑迷な批判拒否体質(3)-『DHCスラップ訴訟』を許さない・第7弾(澤藤統一郎の憲法日記 2014年7月20日)
 
私の手許に、「ジャーナリストが危ない」という単行本がある。副題が「表現の自由を脅かす高額《口封じ》訴訟」と付けられている。2008年5月に花伝社から出版されたもの。スラップ訴訟がジャーナリスト・ジャーナリズムへ及ぼしている影響の深刻さが、シンポジウム出席の当事者の発言を中心に生々しく語られている。花伝社は学生の頃からの知人である平田勝さんが苦労して立ち上げた出版社。あらためて、フットワーク軽く良い仕事をしておられると思う。
 
編者が田島泰彦(上智大学教授)・MIC(日本マスコミ文化情報労組会議)・出版労連の3者。発言者は、山田厚史烏賀陽弘道斎藤貴男西岡研介釜井英法などの諸氏。
 
私は、スラップ訴訟とは、「政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言動を嫌忌して、口封じや言論萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう」と定義してよかろうと思う。恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟・言論封殺訴訟・ビビリ期待訴訟などのネーミングが可能だ。同書では、「高額《口封じ》訴訟」としている。
 
言論の口封じや萎縮の効果を狙っての提訴だから、高額請求訴訟となるのが理の当然。「金目」は人を籠絡することもできるが、人を威嚇し萎縮させることもできる。このような訴権の濫用は、諸刃の剣でもある。冷静に見て原告側の勝訴の敗訴のリスクは大きい。また、判決の帰趨にかかわらず、品の悪いやり方であることこの上ない。自ら「悪役」を買って出て、ダーティーなイメージを身にまとうことになる。消費者からの企業イメージを大きく傷つけることでもある。
 
それでも、スラップ訴訟があとを絶たないのは、それなりの効果を期待しうるからだ。
 
この書の前書きがこう言っている。

「このシンポジウムをとおして浮き彫りになったのは、「裁判」という手段によって、フリージャーナリストに限らず、研究者の発表も市民の発言さえも場合によっては巨額の賠償請求をされる事態が進行しているということであった。裁判の勝ち負けに関係なく、訴えられただけで数百万円もの裁判費用の負担が課せられるのでは、公権力や企業の情報を取材・報道することも困難になるということも明らかになった。すでに表現活動の自由と新自由主義を背景にした企業活動の自由の激しいせめぎ合いが起きていて、その前線に立だされているのは、もはやマスコミの企業ではなくペンやカメラを頼りにしたフリーランスだといっても過言ではない状況だということであった。」
 
要するに、企業ではなく個人が狙い撃ちされているのだ。もちろん、そのほうが遙かに大きな萎縮効果を期待できると考えてのことなのだ。
 
シンポジウムで、オリコンから5000万円のスラップ訴訟を提起された烏賀陽弘道さんが語っている。少し長いが引用したい。

「訴訟そのものを相手の口封じのために利用するという例が、アメリカで70〜80年代にかけて問題になっていることがわかりました。提訴することで、反対運動を起こした相手に弁護士費用を負わせ、時間を食い潰させて、疲弊させて結局潰してしまう。まあ、いじめ訴訟とかそういった感じなのです」

「このSLAPP(スラップ)については、この言葉を考えたデンバー大学の法学部の先生が書いた本が出ています。スラップは、裁判に勝つことを目的にしていないんですね。相手を民事訴訟にひきずりこんで、市民運動や市民運動を率いている人、あるいはジャーナリスト、酷い場合は新聞に投稿した投稿主までを訴えて、業務妨害・共謀罪・威力業務妨害などで、億ドル単位の訴訟を起こす。それによって相手を消耗させる。それがスラップです」

「アメリカ50州のうち、25州でこのスラップが禁止されているんですね。カリフォルニア州の民事訴訟法をみますと、スラップを起こされた側は、これはスラップである、と提訴の段階で動議をまず出せる。裁判所がそれを認めれば、審理が始まらないということになります。そこで止まるんですね。提訴されたほうが裁判のために、時間やお金を浪費しなければならないという恫喝効果が無くなります」

「カリフォルニア州民事訴訟法は、2001年にもう一度、スラップに関する法律を改正しまして、スラップを起こされた側は、スラップをし返していい、ということになったようです(笑)。アメリカってすごいところだな……と思いますね。というわけで、日本でも民事訴訟法に『反スラップ条項』というのが必要ではないかと考えます」
 
この書では、スラップ訴訟の被告になったジャーナリストが、「萎縮してなるものか」と口を揃えている。合い言葉は、「落ちるカナリアになってはならない」ということだ。
 
これも、そのひとり、烏賀陽さんの発言の要約である。

「一人のジャーナリストを血祭りにあげれば、残りの99人は沈黙する。訴える側は、『コイツを黙らせれば、あとは全員黙る』という人を選んで提訴している。炭坑が酸素不足になると、まずカナリヤがコロンと落ちる…。カナリヤが落ちれば、炭坑夫全部が仕事を続けられなくなる」
 
私もカナリアの一羽となった。美しい声は出ないが、鳴き止むことは許されない。ましてや落ちてはならない。心底からそう思う。
 
なお、紹介されている具体的なスラップ訴訟は以下のとおり。

※「原告・安倍晋三事務所秘書」対「被告・山田厚史/朝日新聞社」事件
※「原告・オリコン」対「被告・烏賀陽弘道」事件
※「原告・キャノン/御手洗富士夫」対「被告・斎藤貴男」事件
※「原告・JR総連他」対「被告・講談社/西岡研介」事件
※「原告・武富士」対「被告・週刊金曜日/三宅勝久」事件
※「原告・武富士」対「被告・山岡俊介」事件
※「原告・武富士」対「被告・消費者弁護士3名/同時代社」事件
 
武富士の3件の提訴が目を惹くが、「なるほど武富士ならさもありなん」と世間が思うだろう。武富士とスラップ。イメージにおいてよく似合う。

その点、DHCも武富士に負けてはいない。こちらもスラップ訴訟提起の常連と言ってよい。まだ、全容は必ずしも分明ではないが、「みんなの党・渡辺喜美代表への金銭交付」に対する批判の言論を名誉毀損として、同社からスラップ訴訟をかけられたのは私一人ではない。この点は、東京地裁の担当裁判所も、「同じ原告から東京地裁に複数の同様事件の提起があることは裁判所も心得ています」と明言している。
 
同種の訴訟が複数あるということは、当該の批判の言論を嫌忌したことが本件提訴の主たる動機であることを推察する証左の一つとなりうる。また、同種の訴訟の存在は、共通の批判の意見が多数あることによって、批判の意見の合理性を推認する根拠となるべきものでもある。
 
また、なによりも同種批判が多数存在し、各批判への多数の訴訟提起があることは、原告の頑迷な批判拒絶体質を物語るものである。(2014年7月20日)
関連記事
Secret

TrackBackURL
→http://mizukith.blog91.fc2.com/tb.php/951-0acbcf56