新しい冷戦だという。なんてばかげたネーミング。冷戦は、マルクーゼにいわせれば、「核戦争による破局、人類を絶滅させるかもしれないこの破局があたえる脅威が、ほかでもない、この危険を永続させている勢力を保護するのにも役立っている……」おぞましい「秩序」や「均衡」や「規範」でもあったのだ。いまある脅威は、それらがなくなってしまった空白のなかで、息を呑んで立ちすくんでいる瞬間のことである。たとえどんなにおぞましくても、「秩序」や「均衡」や「規範」が結果的に形成されていたcold warならば、まだしも救いがありえた。これから訪れるもの、すでに訪れているもの、打つ手なしの下絵にみえているのは、「冷戦」ではない。「熱戦」である。弾道ミサイルにせよ核ミサイルにせよ、テクノロジーは中立ではありえない。所有者→使用者の愚昧性がテクノロジカルに顕現したのがマレーシア航空機撃墜事件であり、「破壊とたわむれることを可能ならしめる社会の論理、精神と物質をテクノロジカルに支配している社会の論理である」。戦争狂どもが目をかがやかせている。(辺見庸日録26」2014/07/20)
 
 
今日(7月17日)公共放送のナショナル・パブリック・ラジオで、マレーシア航空機がウクライナで撃墜されたことに関するニュース報道を聞いた。報道は率直なものだったかも知れないが、ロシアと、ウクライナ“分離主義者”に濡れ衣を着せているように聞こえた。BBCは、より偏った意見を売り込み、番組は、分離主義者が、ロシアの兵器で旅客機を撃墜したという、ソーシャル・メディアの報道で終わった。番組出演者の誰一人として、旅客機を撃墜して、分離主義者が一体何を得るのか疑念を持ったものはいなかった。そうではなく、ロシアの責任がはっきりした場合、アメリカのより強硬な対ロシア経済制裁を、EUが支持するように強いるだろうかという議論だった。BBCは、アメリカ政府の筋書きと、アメリカ政府が望んでいる見出し記事をなぞっている。アメリカ政府工作の様相が見て取れる。あらゆる戦争屋がタイミングを見計らったかのように乗り出した。アメリカのジョー・バイデン副大統領は、旅客機は“撃墜された”と宣言した。“事故ではなかった”。特に何らかの魂胆がない人物が、いかなる情報も得る前に、一体なぜそこまで断言できるのだろう 明らかに、バイデンには、旅客機を撃墜したのはキエフだという含意はなかった。バイデンは、ロシアを非難する証拠の強化に精を出している。実際、アメリカ政府のやり口は、証拠が不要なまでに、非難を積み上げるというものだ。ジョン・マケイン上院議員は、乗客リストと、旅客機の墜落原因が判明する前に、アメリカ国民の乗客がいた推測に飛びついて、対ロシア懲罰措置を呼びかけている。“捜査”は、アメリカ政府傀儡のキエフ政権によって行われている。既に結論がどういうものかわかろうというものだ。(マスコミに載らない海外記事 Paul Craig Roberts 2014年7月20日)
 
こんなグロテスクな死体の処理があったのかと、驚かされ、背筋が寒くなった。ドライな火葬方法に慣れた現代日本人にはショックの連続である。ヨーロッパを代表する貴族ハプスブルク家では、心臓、内臓、それ以外の部位を丁寧に切り分け、3つの場所に保管した。なぜなら死体は死んでも「生きて」いて、物ではなかったから燃やせなかったのだと、解剖学者である著者は冷静に結論づける。各臓器の中には各機能が死なずに残っていると信じられていた。たとえば心臓には間違いなく心、精神が生きているはずだから、分離して、大事な場所に保管した。ハプスブルクの埋葬法は共同体が崩壊中途の、移行期の産物であると感じた。本書は、単なるメメントモリ(死を忘れるな)の書ではなくて、死のあり方、人間の死の受け入れ方の変遷を俯瞰して、整理してくれる。読み終わって、死の意味が腑に落ちて、僕自身、救われた。家族をはじめとする共同体が完全に機能していた時代には、人は死んでも、共同体の中では生き続けていたから、それぞれの個人は死を恐れる必要はなく、死体の保存にこだわる必要もなかった。マダガスカルでは、人は祖先になるために生きたので、死といわず、「祖先になる」といって、死をこわがらなかった。そのように共同体が強い時、死と生の境界は曖昧である。この日本でも江戸時代には、「死体の生死」は決定できなかった。自宅で医者にも機械にも頼らずに死んだ僕の祖父の死も、生と連続していて分節できなかった。しかし共同体という時間を超越した居場所がなくなって、生と死は分節され、人はさびしく死ななければならなくなった。(略)立派な墓も、共同体が消えたことの補完物であった。共同体がしっかりしていれば、墓はどうでもよかったのである。墓の延長上に、建築や都市というモニュメントがある。本来の仏教は、墓を重要視しない。安らかに死ねない人が、立派な墓を作り、その延長として立派な建築を作るのである。安らかに死ねないから、立派な建築や、都市を作って、死を隠蔽しなければならないのだと、僕は感じた。そのデザインにたずさわる、自分の人生も見返してみた。(『身体巡礼 ドイツ・オーストリア・チェコ編』(養老孟司著)書評 隈研吾 朝日新聞 2014年7月20日
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