集団的自衛権の行使を容認する国家安全保障会議決定が閣議決定された7月1日の夜、私は、あるメールにうながされて「官邸前抗議行動」なる実況中継を観ました。写しだされたのは、ハンドマイクを握って「憲法を壊すな」「アベはやめろ」と絶叫する女性のパフォーマーの姿。そう、プロテスタント(抗議者)というよりもパフォーマーと呼んだ方が実質に見合っているように見えます。踊っているようにも見えました。その姿には恍惚とした姿は認められても、「怒り」の形相と様相は認められません。ひたすら騒いでいるだけのようにしか見えない。その姿は“負けてもハイタッチ”の若者たちの姿と変わるところはない。騒ぎたい場所が渋谷スクランブル交差点道頓堀川から官邸前に変わっているだけのことでしかないのではないか。激しい嘔吐感と強い嫌悪感に堪えられずすぐに消しました。むろん、共感などするはずもありません。辺見のいう「集団的自衛権行使容認に反対する明るく楽しい「パレード」が、〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をまとった不可視の巨大暴力を、意図せず承認し、ひっきょう、巨大暴力の一構成要因となっていることについては、もっと思考をめぐらさなければならない」(「日録25」2014/07/09)とはそういうことではないか?
 
辺見は脳出血で倒れる以前、「明るく楽しい『パレード』」の違和について次のように書いています。
 
「気だるい土曜の昼下がりに都心のビル街を皆とだらだらと歩いていたら、ふと遠い記憶が蘇った。足下の路面が大きく波打つようにゆらゆらと揺れたときのこと。足の裏が、あの不安とも愉悦ともつかない弾性波の不可思議な感覚をまだかすかに覚えている。アスファルト道路がまるで地震みたいに揺れたのだ。それは、身体の奥の、なんとはなし性的な揺らぎをも導き、この弾性振動の果てには世界になにかとてつもない変化が継起するにちがいないという予感を生じさせたばかりでなく、足下の揺らぎと心の揺らぎが相乗して私をしばしば軽い眩暈におちいらせさえしたものだ。あれは錯覚だったのだろうか。錯覚を事実として記憶し、三十六年ほどの長い時間のうちに、そのまちがった記憶をさらに脚色して、いまそれが暗い脳裏からそびきだされたということなのか。冗談ではない、と歩きながら私はひとりごちる。冗談ではない、ほんとうにこの道がゆっさゆっさと揺れたのだ。誓ってもいい。数万の人間が怒り狂って一斉に駆けだすと、硬い路面が吊り橋みたいに、あるいは春先に弛んだ大河の氷のように揺れることがあるのだ。」
 
「足下の道が揺れると、いったいどうなるか。このことも私はかすかながら記憶している。道が揺れると、〈世界はここからずっと地つづきかもしれない〉と感じることができたりする。勘ちがいにせよ、世界を地づづきと感じることはかならずしもわるいことじゃない。なあ、おい、そうじゃないかとだれかにいいたくなる。地つづきの道が揺れる。弾性波がこの道の遠くへ、さらに遠くへと伝播してゆき、知らない他国の女たちや男たちの、それぞれの皺を刻んだ足の裏がそれを感じる。ただこそばゆく感じるだけか心が励まされるのか、こちらからはわからないけれども、とにかくなにか感じるだろう。伝播する。怒りの波動が、道を伝い、道に接するおびただしい人の躰から躰へと伝播していく。つまり、この場合、人も道も大気も、怒りの媒質となって揺れるのだ。なあ、おい、そういうのを経験してみたいと思わないか。世界の地つづき感とか自分の内と外の終わりない揺れとかを躰で感じてみたくないか。そのことをだれかに問うてみたくなる。本当のところは、ま、錯覚なんだけどね、一回くらい躰で感じてみたくないか、と。私の隣りを歩いている若い男に声をかけようとする。彼はさっきから盛んにタンバリンを鳴らしている。腰をくねらせたり片足を宙に跳ね上げたりして踊りながら、タンバリンを叩いている。男の眼がときおり細まり恍惚とした面持ちになる。遠くのスピーカーから「ウィー・シャル・オーバーカム」が聞こえてくる。皆がそれを歌い始める。ご詠歌みたいに聞こえる。私は話しかけるのをやめる。やかましい、と叫びたくなる。寒さと気恥ずかしさが、躰の奥の、あるかなきかの怒りをかき消しそうになる。地面はむろん揺れはしない。揺れるわけもない。たった三千人ほどの行進なのだから。いや、人数なんか少なくてもいい。せめても深い怒りの表現があればいい。それがない。地を踏む足に、もはや抜き差しならなくなった憤りというものがこもっていない。道は当然、揺れっこない。」(「抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか ――閾下のファシズムを撃て」『世界』2004.3)
 
辺見庸「日録25」(2014/07/09)から。
 
要旨
社会はますます暴力化している。暴力はいまや「反暴力」ないしは「非暴力」の表皮をすきまなくまとって、静謐に組織化され社会化された。貧困と格差拡大、社会の階級化は、個々人の能力や無能力によってもたらされているのではない。「非暴力」の表皮をすきまなくまとったもの――すなわち、民主的に組織化され、社会化され、経済システム化された不可視の巨大暴力によって生成され、ささえられている。(略)わたしはどこまでも暴力に反対する。だからこそ、最大の組織的暴力である集団的自衛権に反対しつづける。ただし、集団的自衛権行使容認に反対する明るく楽しい「パレード」が、〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をまとった不可視の巨大暴力を、意図せず承認し、ひっきょう、巨大暴力の一構成要因となっていることについては、もっと思考をめぐらさなければならない。不可視の巨大暴力を可視化する方法とはなにか。〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をベリベリと引っ剥がす端緒とはなんだろうか。(略)不可視の巨大暴力に民主的、合理的に制圧され統御されることに、どこまでもジタバタと身体的に抗い、あがくことだ。そのとき、不可視の巨大暴力=権力は、有り体なすがたを、さらけだすにちがいない。そこにさえこぎつけないで、集団的自衛権反対が0.1パーセントでも実現するわけがない。
 
全文
いうにいえない衝迫がある。デストルドー(destrudo)がもっとも蒼古的な人間衝動かどうか知らない。が、現在の風景はとうてい受けいれがたい。できうることなら、いまはもっと物理的なぶつかりあいがあってもよいのではないか、とおもう。それに身体的に加わることのむつかしくなったわたしには、せめて大がかりなぶつかりあいをみてみたいという、とくに秘匿するにはあたらない欲動がある。それはマチスモとはまったくちがう衝迫である。
 
ラテン語のウィオレンティア(violentia。引用者注:暴力)が女性名詞であることはなにか示唆的だ。わたしは暴力に反対する。どこまでも反対する。暴力は人間存在の基本をおびやかすものであり、あらゆる対立と矛盾は、非暴力的な手段によって創造的に解決されるべきであることには論議の余地がない。
 
しかしながら、そうした方法意識は、実現途上にあるどころか、社会はますます暴力化している。暴力はいまや「反暴力」ないしは「非暴力」の表皮をすきまなくまとって、静謐に組織化され社会化された。貧困と格差拡大、社会の階級化は、個々人の能力や無能力によってもたらされているのではない。「非暴力」の表皮をすきまなくまとったもの――すなわち、民主的に組織化され、社会化され、経済システム化された不可視の巨大暴力によって生成され、ささえられている。
 
この不可視の巨大暴力を可視化する方法――〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をベリベリと剥ぐ契機――がかんがえられてわるいわけがない。暴力に実際的に対抗できるのは同等量以上の暴力だけである、という。暴力を抑えるためには、より強力で組織的な暴力が社会のなかで形成されなければならない、という。
 
わたしはそうはおもわない。わたしはどこまでも暴力に反対する。だからこそ、最大の組織的暴力である集団的自衛権に反対しつづける。ただし、集団的自衛権行使容認に反対する明るく楽しい「パレード」が、〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をまとった不可視の巨大暴力を、意図せず承認し、ひっきょう、巨大暴力の一構成要因となっていることについては、もっと思考をめぐらさなければならない。
 
不可視の巨大暴力を可視化する方法とはなにか。〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をベリベリと引っ剥がす端緒とはなんだろうか。わたしのいうウィオレンティアは、殴ることではなく、おそらく、殴られることだ。他を打擲するのではない。まったく理不尽に打擲されること、殴打されること、わが身体から血が流されることである。不可視の巨大暴力に民主的、合理的に制圧され統御されることに、どこまでもジタバタと身体的に抗い、あがくことだ。そのとき、不可視の巨大暴力=権力は、有り体なすがたを、さらけだすにちがいない。そこにさえこぎつけないで、集団的自衛権反対が0.1パーセントでも実現するわけがない。霧雨のなか、エベレストにのぼった。
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