今日7月7日は77年前に盧溝橋事件が起こった日。

辺見庸「日録24」(2014/07/07)から。
 
要旨
1937(昭和12)年7月7日夜半、北京郊外の盧溝橋近くで、日本の「支那駐屯軍」部隊が夜間演習をはじめ、その最中に、数発の射撃音があり、(略)これは中国軍の「奇襲作戦」にちがいないと断定した牟田口連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃した。(略)
 
9月には天皇ヒロヒトが「中華民国深く帝国の真意を解せず濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事変を見るに至る」と中国側に戦争責任を押しつけ、明かな侵略行為を「中華民国の反省を促し速に東亜の平和を確立」するため……などと、正当だと強弁した。これをうたがったリーベンレン(引用者注:日本人)はほぼ皆無。それでもヒロヒトは戦犯にもならず、「人道に対する罪」にも問われなかったのだから、リ-ベンてのはものすごいクニなのだ。「暴支膺懲」を口実にした侵略と殺戮は、昭和天皇のお墨付きをえて勢いづく。戦線はひろがる一方だった。他国の軍事占領は是か非か、人道上よいかわるいか、国際的準則にもとずいているか……など、かえりみられたふしはない。
 
12月にはついに南京を「攻略」。このときである、南京大虐殺がおきたのは。せいかくな数はわからない。だが、どんなに少なくても、数百、数千なんていう人数ではない。最低でも数万人が殺された。(略)日本軍が中国の都市を占領するたびに、日本では提灯行列をし、万歳三唱をして祝った。12月13日の南京陥落のときは、とくに日本中が大パレードでわきたった。大フィーバー。東京の「奉祝」提灯行列には40万人が参加し、「日本勝った、日本勝った、また勝った、シナのチャンコロまた負けた!」などととはやしたてた。中国人なんてだれもいわなかった。かりに南京大虐殺の事実が報じられていたとしても、提灯行列のもりあがりは、なにも変わらなかっただろうな。軍は中国各地に際限なく戦線を拡大して、「連戦連勝」に酔いしれ、宣戦布告のないまま、全面戦争に発展していった。それに異をとなえる者は、なきにひとしかったのだから、massacre(引用者注:大虐殺)は「戦勝」とほとんど同義であったはずだ。(略)
 
盧溝橋事件なんてもうだれも知らない。日中戦争でどれだけひとが殺されたか知らない。先生も知らない。先生が知らないのだから、生徒がわかるわけもない。南京大虐殺もなかったことにされる。けふは七夕。盧溝橋事件の数日前、現地駐屯日本軍将兵のあいだには、「七夕の日になにかかがおこる」という噂が流れていたという。
 
全文
冬、月の夜、盧溝橋の欄干に手で触ってみたことがある。あれは大理石だったか、えぐられた弾痕を指でなぞったら、指が凹みにはりつき、皮膚が剥がれそうなほど冷たかった。永定河のことは憶えていない。ひとりで車を運転し、なんどか行ってみた。橋のたもとで、兵士に誰何されたこともあった。怖かったな。
 
1937(昭和12)年7月7日夜半、北京郊外の盧溝橋近くで、日本の「支那駐屯軍」部隊が夜間演習をはじめ、その最中に、数発の射撃音があり、点呼したら日本軍兵士1人が足りなかったという。その兵士は腹痛で草むらにかけこんでいただけだったのだが、これは中国軍の「奇襲作戦」にちがいないと断定した牟田口連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃した。わたしは学校でそう習った。関東軍がみずから満鉄の線路を爆破した1931年の柳条湖事件もそうだが、日中戦争はリーベン(引用者注:日本)の謀略だらけだ。さて、37年7月9日に停戦交渉がおこなわれ、11日には両軍間で停戦協定が調印されて事態は収拾されたかにみえたのだが、日本政府はただちに「華北派兵に関する声明」を布告。「満州国」に駐屯していた関東軍などが次々に侵攻し、北京・天津地方を占領。8月には第1次近衛内閣が「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとる」と宣言、約10万の大部隊の華北派兵を決定して、上海方面にも戦線を拡大する。やりたいほうだいである。
 
9月には天皇ヒロヒトが「中華民国深く帝国の真意を解せず濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事変を見るに至る」と中国側に戦争責任を押しつけ、明かな侵略行為を「中華民国の反省を促し速に東亜の平和を確立」するため……などと、正当だと強弁した。これをうたがったリーベンレン(引用者注:日本人)はほぼ皆無。それでもヒロヒトは戦犯にもならず、「人道に対する罪」にも問われなかったのだから、リ-ベンてのはものすごいクニなのだ。「暴支膺懲」を口実にした侵略と殺戮は、昭和天皇のお墨付きをえて勢いづく。戦線はひろがる一方だった。他国の軍事占領は是か非か、人道上よいかわるいか、国際的準則にもとずいているか……など、かえりみられたふしはない。
 
12月にはついに南京を「攻略」。このときである、南京大虐殺がおきたのは。せいかくな数はわからない。だが、どんなに少なくても、数百、数千なんていう人数ではない。最低でも数万人が殺された。
大虐殺記念館ができるというニュースをわたしは、20世紀後半に、リーベンに送った。南京で取材した。ほっつきあるいた。足が棒になったな。汗をいっぱいかいたな。日本軍が中国の都市を占領するたびに、日本では提灯行列をし、万歳三唱をして祝った。12月13日の南京陥落のときは、とくに日本中が大パレードでわきたった。大フィーバー。東京の「奉祝」提灯行列には40万人が参加し、「日本勝った、日本勝った、また勝った、シナのチャンコロまた負けた!」などととはやしたてた。中国人なんてだれもいわなかった。かりに南京大虐殺の事実が報じられていたとしても、提灯行列のもりあがりは、なにも変わらなかっただろうな。軍は中国各地に際限なく戦線を拡大して、「連戦連勝」に酔いしれ、宣戦布告のないまま、全面戦争に発展していった。それに異をとなえる者は、なきにひとしかったのだから、massacre(引用者注:大虐殺)は「戦勝」とほとんど同義であったはずだ。
 
吉本隆明が「戦争中の気分」について語ったことがある。こちらは太平洋戦争時らしいが、「社会全体が高揚していて、明るかった」そうなのだ。「戦争中は世の中は暗かった」というのは戦後左翼や戦後民主主義者の大ウソ、戦争中は、世の中がスッキリしているというか、ものすごく明るいんです……云々と話している。それはそうだったかもしれぬが、吉本さん、どうもおかしい。「かわいさあまって憎さが百倍」がもっとねじれ、高じて、戦後左翼や戦後民主主義者は、戦争発動者より、ヒロヒトよりもっとわるい、てな舌鋒になっていく。歴史はボロボロである。
 
盧溝橋事件なんてもうだれも知らない。日中戦争でどれだけひとが殺されたか知らない。先生も知らない。先生が知らないのだから、生徒がわかるわけもない。南京大虐殺もなかったことにされる。けふは七夕。盧溝橋事件の数日前、現地駐屯日本軍将兵のあいだには、「七夕の日になにかかがおこる」という噂が流れていたという。エベレストにのぼらなかった。
辺見庸「日録24」2014/07/07
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