以下に加藤典洋(文芸評論家)と乗松聡子(「Peace Philosophy Centre」主宰)の論があります。どちらも2014年4月11日付けのものです。
 
加藤典洋:
「安倍首相の靖国神社参拝から3カ月半。これだけの短期間で日本の孤立が深まった根本的原因は、日本が先の戦争について、アジア諸国に心から謝罪するだけの「強さ」を持っていないことです。日本が東アジア諸国と安定した関係を築くには、しっかりと謝罪し通す以外の道はない。これは戦後の世界秩序の中では、どうあがいても動かない原則です。ところが、日本が本当の意味で東アジア諸国に謝罪したと言えるのは、従軍慰安婦に関する1993年の河野官房長官談話、侵略戦争と認めた95年の村山首相談話と、それを継承した05年の小泉首相談話くらい。これらに対し、近年、政治家が繰り返し疑問や反発の声を上げて、これまでに築いた信用を自ら掘り崩してきました。自らが生きる東アジアで関係を築けない以上、米国との関係に依存するしかない。だから米国に「失望した」と言われたとたん、世界で孤立してしまう。」
 
「戦争は通常、国益のぶつかり合いから生じるもので、「どちらが正しいか」という問題は生じません。しかし、先の戦争はグループ間の世界戦争で、「民主主義対ファシズム」というイデオロギー同士の争いでもあった。民主主義の価値を信じる限り、「日本は間違った悪い戦争をした」と認めざるを得ない。だが、たとえ間違った戦争であっても、当時これを正しいと信じ戦って死んだ同胞を哀悼したい、という気持ちは自然です。それを否定しては人間のつながりが成り立たない。「悪い戦争を戦って亡くなった自国民をどう追悼するのか」という、世界史上かつてなかった課題に私たちは直面したが、その解決策をいまだに見いだせない。これが第一のねじれです。」
 
「陳腐な言い方になってしまいますが、根本は「苦しんだ人への想像力を持てるか」「それを相手に届くように示せるか」です。人も国もそれができなかったら、信頼を失い孤立するしかない。理屈もこの心の深さの上に立たなければ意味をなさないのです。西ドイツの首相だったウィリー・ブラントは70年、当時共産圏だったポーランドでユダヤ人ゲットーの蜂起記念碑を訪れた際、思わずひざまずいた。ドイツ国内からは「屈辱外交」と非難され、ポーランド側さえとまどった。だが、そうした「政治家の顔が見える、本当の心をともなった謝罪」だけが、苦しめられた側に届く。「元慰安婦たちはウソをついている」と言わんばかりの姿勢でいいのか。それを判断する感度が、政治家だけでなく日本社会全体で弱くなっていることを危惧します。」(朝日新聞「耕論」聞き手:太田啓之 2014年4月11日
 
乗松聡子:
「無謀無策なアジア太平洋戦争を起こし、甚大な被害を出して敗北した日本。戦争で死んだ人を記憶するとき「この人たちの犠牲があるから今の平和や繁栄がある」という言い方をする人がいるが、これには大きな問題がある。戦争で無駄死にさせられた内外の民間人も兵士も、後世の平和や繁栄のために死んだのではない。家族の幸せも生きていく喜びも全て奪われていった人たちの無念を思うと、「あの犠牲があるから今の平和がある」なんて失礼な言い方はできないはずだ。アジア太平洋戦争で無為な殺戮を大量に行った反省から日本国憲法が生まれたのである。「あの犠牲があるから今の○○がある」とどうしても言いたいのなら、それは日本国憲法であり、憲法を守り戦争や戦争準備をしないことによってしか、その人たちの無念と怒りと生きたかった気持ちを生かす道はない。それが、ここで大江健三郎氏がいう、「新憲法という時代の精神」である。憲法9条の最後の砦である集団自衛権行使権禁止を解除するという違憲行為によって、国外で再び戦争ができる国になることは絶対許されないのである。戦争で殺された人たちの無念さを忘れず二度と同じ過ちを犯さないためにも。」(Peace Philosophy Centre 2014年4月11日
 
乗松聡子の論はかつての高橋哲哉の論を想起させます。「かつての」というのは20年前の高橋哲哉と加藤典洋の論争のことを指します。いわゆる「敗戦後論」論争。私ははじめは加藤典洋の側にいました。ふたりの議論を繰り返し検討してみる過程で私は「論理的には高橋哲哉の論に与せねばならない」と思うようになりましたが、しかし、いまだに私は加藤典洋の論を完全に克服しえているわけではありません。感情としては私はいまだに加藤典洋の側にいるのかもしれません。そう思うことがしばしばあります。 
*これは余談ですが、これもやはり20年ほど前、福岡の海鳥社(だったか、これも記憶があやふやなのですが)という小さな出版社から加藤典洋が本を出すことになって、その出版記念会のようなものが福岡の海鳥社の事務所でささやかに開かれたことがあります。この出版記念会には竹田青嗣も参加して、加藤と竹田ともうひとりふたりと一緒に中洲のとあるスナックに流れて行ったことがあります。このとき竹田青嗣は井上陽水の歌を歌いましたが、そのうまさに驚いたことを記憶しています。加藤もなにか歌っていましたが覚えていません(ごめん。たぶん記憶していないのはあまりうまくなかったからでしょう)。私が都はるみの「アンコ椿は恋の花」をうなったのがきっかけだったか。3人とも同世代でした。

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