以下は坂井貴司さんのCMLでの返信への再返信です。「『井上清の政治的立場』という論攷に対する再反論(上・下)」の続きということでもあります。


坂井さん

坂井さんは沖縄県議会は「尖閣諸島は日本固有の領土」と全会一致で決議した」が(注1)、「井上論文から見れば、」同決議を「決議した沖縄県議会の議員たちは全員、日帝の手先であり、軍国主義者になります」と言われるのですが、そうでしょうか?

もとより尖閣諸島が「日本固有の領土」である、と強固に主張する勢力は上記の沖縄県議会をはじめ日本政府・外務省、共産党、社民党、自民党、右翼系諸団体などなど多数存在します。しかし、同諸島がほんとうに「日本固有の領土」である、といえるのかどうかについては、国際的にも国内的にも疑問を呈する声は少なくありません(注2、注3)。その疑問の声は、「他国の手が及んでいない領土を先に発見したり、先占したりすることでそれを自国領だと宣言しうるという発想そのものを俎上にのせる必要がある」(『北方領土問題』、岩下明裕、中公新書)というものから、歴史学者の故井上清氏のように「釣魚(尖閣)諸島は明の時代から中国領として知られている」というものまでこれも幅広く多様です。

そうした多様にある「尖閣諸島は日本固有の領土」という主張に対する疑問の声が「尖閣諸島は日本固有の領土」とする沖縄県民を代表する同県議会の決議と異なるからといって、それが即沖縄県民を侮蔑し、沖縄県民の「普天間基地撤去や辺野古移設反対」のたたかいに背を向ける、ということにはならないことはいうまでもないことです。沖縄県民の声は当然「神の声」ではありえないし、「尖閣諸島は日本固有の領土」という主張を疑問視する人たちの中にはたとえば在野の思想家であり、作家でもある沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの井上澄夫さんのようにこれまでもこれからも沖縄と連帯しようとする意志を持ち続ける人たちも決して少なくないからです(CML 005787)。

同じように井上論文の中にある「日本帝国主義の中国領釣魚諸島略奪反対のたたかいを広範に展開すべきである」という主張をもって即「沖縄県議会の議員たちは全員、日帝の手先であり、軍国主義者」と沖縄県議会議員を糾弾する声になる、と即断することも正しくないだろうと私は思います。井上氏は「日本帝国主義の中国領釣魚諸島略奪」の歴史的経緯を解明し、その「日本帝国主義の略奪」行為を弾劾しても日本人民」(沖縄県民も含まれることは当然のことです)はあくまでもその「略奪反対」のたたかいをともにたたかう共同行為者と位置づけているからです。井上論文が彼の「政治的主張を述べた文書」であり、「冷静な」学術論文とはいえない、という坂井さんのご指摘は私も首肯できるものですが、「冷静な」学術論文とはいえなくとも、少なくとも尖閣(釣魚)諸島の史的解明を試みた学術論文の側面を持つ歴史学者の著書であることも確かなことのように私は思います。井上論文を「政治的主張を述べた文書」にすぎないとして彼の著書のすべての記述を全否定するような態度は(そういう態度が仮にあったとして)私は好ましいものとは思いません。

むろん、坂井さんは井上論文の全面否定論者ではなく、同論文に一定の「説得力」を認めているお立場であることは承知していますが、井上論文の「政治的主張を述べた」部分を強調しようとするあまり同論文の「説得力」のある部分まで一緒に水に流しているきらいがややあるように私には感じられます。

ところで坂井さんがご紹介された井上論文に対する沖縄からの反論の著『尖閣列島』(緑間栄著 おきなわ文庫14 1986年)には教えられるところがありました。私は同著書をいまだ読む機会を得ていないのですが、下記のブログ記事によれば同書には次のような記述があるようです。

尖閣諸島は長く無主無住の島嶼であった。16世紀に中国の陳侃の書物「使琉球録」などに釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼などの島名があり、中国が島嶼を航路標識に使った証拠とするが、この当時中国側は尖閣諸島付近を経て琉球に達する航海に習熟しておらず、琉球からの迎えの到着を待って、彼ら琉球人を案内としてはじめて航海することができた。「使琉球録」は、琉球人が諸島を航海の標識としてよく使っていたとを証明している。

上記のうち「この当時中国側は尖閣諸島付近を経て琉球に達する航海に習熟しておらず、琉球からの迎えの到着を待って、彼ら琉球人を案内としてはじめて航海することができた」という記述にはとりわけ教えられるところがありました。上述の井上論文の「釣魚(尖閣)諸島の島々と琉球人の生活とは関係が浅かった」という論断と真っ向から対立する見解の表明であったからです。そして、緑間栄氏のこの見解は正しいもののように思えます。

井上論文には「釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている」証明として『使琉球録』(陳侃 1534年)の記録が用いられているのですが、その『使琉球録』には次のような記述がありました。

十日、南風甚ダ迅(はや)ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目接スルニ暇(いとま)アラズ。(中略)十一日夕、古米(くめ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。

井上氏はこの『使琉球録』の記述を「釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている」証明として用いているのですが、同『使琉球録』の「夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ」という記述は、同時に中国・福州から沖縄・那覇に至る航海は琉球人船乗りの技術に支えられていたことを示すものでもありえます。だとすれば、井上氏の「釣魚(尖閣)諸島の島々と琉球人の生活とは関係が浅かった」という論断は誤りというべきであり、むしろ同記述は中国人よりも琉球人の方が尖閣諸島の島々の地理には通じていたことを示す証明になっているといえることになります。坂井さんがおっしゃるように『尖閣列島』(緑間栄著)は井上論文に対する沖縄からの十分な反駁の書になりえている、といってよいと思います。

ちなみに旧JanJan記事に次のような指摘も見出しました。

琉球が初めて冊封関係を結んだのは1404(応永11)年で、琉球の中山王・武寧は父の察度の死を報告し、冊封を請うた。その冊封の礼を行うため使者を派遣した。尖閣諸島は中国(門港)から琉球に向かう冊封船の標識島として活用されていた。そのとき、中国には琉球への航海の経験者がいないので、琉球からの進貢船を待って出港している。そのとき、中国の船で航路を指示し、中国側に航路の標識になる島を教えたのが航海に習熟している琉球の看針通事である。そのときに中国側は尖閣の島々の名称を知ることになる。その記録が『冊封使録』である。/故・井上清氏は『「尖閣」列島――釣魚諸島の史的解明』(現代評論社)の中使で、こうした歴史的な流れを省いて考察しており、その論拠は完全に崩れている。
(「尖閣諸島にみる政党や政府の領土意識の欠如」JanJan 比嘉康文 2006年8月11日付)

坂井さんの同書のご紹介に感謝申し上げたいと思います。大切なことを教わりました。「尖閣諸島問題は日本と中国(そして台湾)の国家だけでなく、沖縄の視点も加えて論ずるべきだと思います」(CML 005876)という坂井さんのご提言と視点にはむろん大賛成です。


注1:「尖閣諸島事件で決議=日本の領土『疑問の余地なし』?沖縄県議会」(時事通信 2010年9月28日)
沖縄県議会は28日、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件を「領海侵犯」として中国政府に抗議し、再発防止などを求める決議を全会一致で可決した。決議は「尖閣諸島がわが国固有の領土で沖縄県の行政区域であることは疑問の余地がない」としている。/県議会はまた、中国漁船の船長が処分保留のまま釈放されたことを受け日本政府に抗議する決議も全会一致で可決した。決議は、尖閣諸島が日本の領土であることを国外に示すよう政府に求めている。
注2:「尖閣列島は本当に「領土問題」でない?アメリカは本当に守ってくれる?」(加藤哲郎のネチズンカレッジ」 2010年10月1日付)
注3:「尖閣諸島」は、わが国「固有の領土」か 日中共用の水域へ(リベラル21 西田勝 2010年10月13日)
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