明日は東京都知事選の告示日です。私はこれまでこの東京都知事選の「革新」の候補者問題についてけっして見過ごしてはならない問題として「革新候補者はどうあるべきか」という問題について澤藤統一郎弁護士の問題提起を軸としてそれに呼応する形で私なりにもさまざまに問題提起をしてきました。しかし、そうした問題提起などなにもなかったかのような能天気な、その実、曇天の空模様の中で都知事選の告示日を迎えることになりました。歴史とはそういうものなのかもしれません。「まことに尋常ならざることを、実時間では、当然のようにながめていたり」するのが歴史というものだから。「人間集団とは、けだし度しがたい。戦争は、 それが戦争とも意識されずに、ある日、ふと気がついたら、はじまっているだろう」(辺見庸『私事片々』(2013/12/31)より)。
 
しかし、いつの場合も(「治安維持法」の時代を除いて、とつけ足しておかなければならないでしょう)一片の違和感を述べることはできます。以下は、その私の違和感の断片です。もちろん、東京都知事選に関連しての断片です。
 
私は1月16日付けのエントリで澤藤弁護士への「言論封殺事件」に関して「とりわけ『憲法会議』所属の研究者、弁護士の率直なご意見をお伺いしたいところです」という愚見を述べておきましたが、いまのところ(東京都知事選告示前日の「いまのところ」ということです)「憲法会議」所属の研究者、弁護士がこの「言論封殺事件」についてなんらかの意見を表明したという事実を私は知りません。しかし、下記にご紹介する「kojitakenの日記」ブログのコメントは、もしかしたら、その文面の内容から判断して、「憲法会議」所属の研究者なり、弁護士のおひとりによるものではないか、と、私はひそかに疑っています。

しかし、そのコメントが仮に「憲法会議」の研究者、または弁護士によるものであったとしても、だから「法律的に正しい」、だから「道理がある」ということには当然なりません。コメントにはずいぶんひとりよがりなところが感じられます。コメント主の臆断でしかないことをさも事実であるかのように詐述しているところもあります。このような論法をストローマン(藁人形)論法といいます。詭弁論の一種とし
てソクラテスの時代から戒められてきている論法でもあります。
 
さて、そのコメントとは以下のようなものでした。「kojitakenの日記」ブログから先に引用しておきます。
 
「kojitakenさんは現在有権者だと思うのですが、「今回選挙は寝る」と言われる気持ちはよく分るつもりです。いままでほとんどこのブログを見てはいなかったのですが、kojitakenさんの潔癖感には親近感を覚えます。/その上でのことなのですが、澤藤弁護士が言っている「憲法会議の言論弾圧」については、ある意味で昔からよく知られたことであり、澤藤氏が今頃になってウブにも「初めて気がついた」という感じで批判しているのは、パフォーマンス以外の何ものでもないと思います。彼は、昨年4月(?)頃から、日民協のホームページ内の1ページから現在のブログを「独立」させていますが、それは、その後彼がブログで展開する言説が日民協に巻添え禍を起こさせないように「配慮」したものでしょう。彼は同協会の事務局長を歴任していたのですから…。その「配慮」の質・内容と、今回の憲法会議による「弾圧」とは、ほとんど同じであるにも拘らず、彼はそれを批判しているわけです。自分で予測しておいて、予測通りになった事態の展開を「言論弾圧だ!」と批判するのは、決してフェアではないと思います。
 
世の中には「傾向企業の法理」というものもあるのですから、憲法会議の機関紙の編集権というものも考慮せざるをえません。/こうした「ムラ社会の論理による異端者排除」それ自体をなくすためにも、政治情勢を進展させる必要はあると思います。現在の共産党には、人間的にまったくおかしな連中が多数いて、指導部さえその例外ではない(私が接している末端の人間でも同じ)と思っていますが、結局は「より悪くない選択肢の選択」でしかないと思います。「寝て」いても、残念ながら事態を動かすことはできませんし、それは、「宝くじを買った人だけが当選できる」ということと似ています。宝くじに「当る」確率は極めて低いでしょうが、宝くじを買わなければ、当る確率は確定的に「ゼロ」です。/現在は、悔しさを腹に収めて、「当りそうにない宝くじを買う」という選択をするのも、民主主義の真の発展に沿うのではないか思っています。(『kojitakenの日記』「『自分の外に『主人』を持たない』(醍醐聰・東大名誉教授)」2014-01-19より)
 
以下は、私の反論です。
 
第1。コメント主は「『憲法会議の言論弾圧』については、ある意味で昔からよく知られたこと」というのですが、その「憲法会議の言論弾圧」なるものはどういうものをいうのでしょう? 私は寡聞にして「憲法会議の言論弾圧」なるものを知りません。事例を示していただきたいものです。ただ、私の指摘する「民主勢力ムラ」という「ムラ社会」総体における「言論弾圧」の事例については私も若干のことは知っているところはあります。
 
それは1983年4月に『民主文学』の4月号が「赤旗」から広告掲載を拒否されたという言論弾圧事件です。「赤旗」(すなわち、日本共産党)の広告掲載拒否の理由は同号に中国の作家チェン・ロンの小説『人が中年になると』を紹介した小田実の「『人到中年』・ひとつの『まえせつ』」という文章に問題がある、というものでした。同号に掲載された小田実の文章は「昨年くれの中国訪問で、私は何人かの中国の作家とあった。野間宏さんを『団長』としてかつての『使者』の同人仲間と一種の『作家代表団』をかたちづくって行ったので(野間さんと私の他に行ったのは、井上光晴、篠田浩一郎、真継伸彦の諸氏だ)、招待者の作家協会のほうでもそういう機会をつくってくれた」というものでした。「赤旗」(共産党)はその文章に問題がある、というのです。
 
「赤旗」(共産党)の言い分は次のようなもの。

「中国共産党はわが党への乱暴な干渉をいまなお謝ろうとしないばかりか、依然として反党分子との交渉をつづけて反省の色がない。(略)日中文化交流協会常任理事である野間宏らの訪中もそのひとつである。したがって野間訪中の事実を記述した論文をのせ、しかも貴重な原稿をいただいて感謝するという編集後記がのっているような雑誌の広告を『赤旗』にのせることはできない」(「『民主文学』四月号問題」とは何か。霜多正次著『ちゅらかさ――民主主義文学運動と私――』」より)。
 
上記の「赤旗」(共産党)の主張に道理があるとはいえないでしょう。この「赤旗」(共産党)の言論弾圧事件を契機に『民主文学』は分裂します。上記はその分裂した一方の「総合文藝誌『葦牙』」ブログに掲載されている『民主文学』分裂の顛末です。
 
そういうことを「ある意味で昔からよく知られたこと」であると指摘しているのだとすれば、このコメント主の主張もある程度の筋は通らなくもありません。澤藤弁護士も長年の共産党シンパのようですから上記の事情を知っていてもおかしくはないでしょう。しかし、そういうことと今回の憲法会議の「言論弾圧」問題とは別のことです。そうした別の問題を持ち出して(それもほんとうにあったことかどうかの証明もない)「澤藤氏が今頃になってウブにも『初めて気がついた』という感じで批判しているのは、パフォーマンス以外の何ものでもない」などと非難の口実にするのは不実の非難、詭弁の論法というほかないでしょう。
 
第2。このコメント主はまた、「傾向企業の法理」なるものを持ち出して、今回の憲法会議の澤藤弁護士に対する言論弾圧は「憲法会議の機関紙の編集権」の範囲内のことであるかのような主張もしています。「傾向企業の法理」なるものはふつうは「部分社会の法理」と呼ばれるもので「団体内部の規律問題については司法審査が及ばない」とする法理のことをいいます(wikipedia『部分社会論』)。
 
しかし、今回の憲法会議の澤藤弁護士に対する言論弾圧はいうまでもなく「団体内部の規律問題」ではありません。同会議はいかなる目的をもって設立されたのか、という同会議のレーゾン・デートル(存立意義)と民主主義的理念に関わる問題というべきであり、また、言論の自由、表現の自由に関わる「個人」の精神的自由権の問題というべきものです。それを「団体内部の規律問題」であるかのように貶めるのは明白な誤りです。すなわち、部分社会の法理は、ある団体が独自の処分権限を有することを事前に承認した上でその団体に入っているということを前提にして成立するものですが、言論弾圧があることを事前に承認して入会する者などマゾヒストでも見つけない限りどこを探してもいないでしょう。これも詭弁というべきものです。
 
第3。このコメント主はさらに澤藤弁護士は「昨年4月(?)頃から、日民協のホームページ内の1ページから現在のブログを『独立』させていますが、それは、その後彼がブログで展開する言説が日民協に巻添え禍を起こさせないように「配慮」したもの」だろうとも言い、「自分で予測しておいて、予測通りになった事態の展開を『言論弾圧だ!』と批判するのは、決してフェアではない」とも澤藤弁護士を批判しているのですが、同弁護士が昨年4月に日民協のホームページから現在のブログを「独立」させたことは事実ですが(「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい-その11」)、そのブログの「独立」が「その後彼がブログで展開する言説が日民協に巻添え禍を起こさせ」ることをあらかじめ予想して「独立」させたものではないことは、今回の澤藤氏の「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」批判は、昨年の12月20日の「人にやさしい東京をつくる会・運営会議」において同弁護士が同会議運営委員の役職を「だましうち解任」されたことが契機になって始まっていることからも明らかでしょう(「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい。」 2013年12月21日付)。
 
その「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」批判では先の都知事選で宇都宮選対の本部長だった前国立市長の上原公子氏批判が中心的批判のひとつにもなっていますが、澤藤氏のブログには「私が、上原公子選対本部長の選挙運動報酬受領を知ったのは、2013年4月11日のことである」((「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい-その14」)という記述もあります。したがって、この時点でも「その後彼がブログで展開する言説が日民協に巻添え禍を起こさせ」ることを予想して自身のブログを「独立」させたわけではないことも明らかです。
 
もちろん、澤藤氏のブログには次のような記述もあります。「私は、大河が作成したこの書面(引用者注:2012年12月15日付)を読んで、心の叫びを聞いた思いがした。そうだ、「一寸の虫にも五分の魂」があるのだ。このとき、いかなることがあろうとも、徹底して大河の側に就くことを決意した」(「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその22」)。だとすれば、澤藤弁護士にはこの2012年12月15日の時点で「宇都宮選対」及び「人にやさしい東京をつくる会」に対峙する決意が芽生えていたということも確かなことといえるでしょう。しかし、その決意は、澤藤弁護士の内面の中のできごとです。この澤藤氏の内面上の決意が現在のブログを『独立』させる起因になったとは本人以外誰にも証明できないことです(もしかしたらそうかもしれないし、そうでないかもしれない、ということ)。その証明できないことをもって「予測通りになった事態の展開を『言論弾圧だ!』と批判するのは、決してフェアではない」などと批判することはできないでしょう。第一、上記のことは「宇都宮選対」や「人にやさしい東京をつくる会」との対峙の可能性の予感の問題であって、憲法会議の今回の「言論弾圧」に関しての予感ではありません。そういう点からみても、コメント主の批判こそ「決してフェアではない」と批判されなければならないのです。
 
私たちの宇都宮健児氏批判について「利敵行為」だという批判が前からあります。しかし、私たちが「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」と言い続けてきたのは、東京都知事選で「革新」を勝利させるためにそう言い続けてきたのです。もちろん、「利敵行為」のためにではありません。宇都宮氏を支持する人たちにはその私たちの真意がいまだに伝わっていないようです。
 
しかし、宇都宮氏及び宇都宮氏の側の早い段階での立候補表明が、他のふさわしい候補者選びを選びがたくしてしまいました。その結果としてこの都知事選で「革新」を勝利させることはほとんど(いや、まったく、といってよいでしょう)望みがたくなってしまいました。それは、私たちが宇都宮健児氏批判を続けてきたからではありません。残念なことですが、宇都宮健児氏側(政党を含みます)の自業自得といわざるをえないのです。いま、東京都民に残された選択はおそらくレス・ワース(より少なく悪い)の選択だけということができるでしょう。
 
なお、標題に「最後の反論」とあるのは「『立候補』はおやめなさい」問題に関してのみのことです。憲法会議の「言論弾圧問題」や「希望のまち東京をつくる会」の体質批判の問題はまだ終っているわけではありません。
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