私の昨日の記事に下記のようなコメントがありました。
 
「澤藤氏と醍醐氏のブログ、ならびに貴ブログで展開されている議論は、政治的スローガン(それ自体の妥当性はさておき)の影で、これまであまり語られて来なかった個人の責任倫理権利という基本的な問題についてのことです。日本社会で、最も欠落している部分でしょう。
 
社会的な運動に係わった人のかなりの方が、運動内部で体験する問題ですが、大抵は集団圧力や'大義'の名のもとに沈黙するか、運動から去っていきました。この歴史が、民主主義を根付かせることに成功してこなかった日本の姿だと考えます。
 
澤藤氏の問題提起を真正面から受け留められる人があまりに少ないことに、それが如実に表れています。」                                                                                                                             Rocky 2014/01/14
 
 「社会的な運動に係わった人のかなりの方が、運動内部で体験する問題ですが、大抵は集団圧力や'大義'の名のもとに沈黙するか、運動から去っていきました・・・・」
 
そのとおりです。私もどれほどそういう人たちを見てきたことでしょう。そして、私自身がそうでした。
 
「澤藤氏の問題提起を真正面から受け留められる人があまりに少ないこと・・・・」
 
まさにそのとおりだと思います。強く、激しく、言われることへの共感。
 
と同時にこみあげてくる悔しさと哀しさと涙をじっと唇を噛んで堪えています。
 
でも、私は燃え尽きない。死ぬまで燃え尽きない。そういう思いで生きています。
 
おそらく澤藤さんも、醍醐さんも。そして、大河さんも、Tさんも。
 
私のブログの端に辺見庸の言葉を置いているのですが、私の選んだその辺見庸の言葉は次のようなものでした。
 
      われわれはひとりひとり
        例外になる。
      孤立する。
        例外でありつづけ、悩み
      敗北を覚悟して
        戦いつづけること。
      これが、じつは深い自由だと
        私は思わざるをえません。
        (辺見庸講演記録 2013年8月31日

小説」は、なにができるか? 
              (Don't Let Me Down「小説は、なにができるか?」より)

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