以下は、CMLというメーリングリストに標題のような反論をするために本日投稿したものです。

林田力(「評論家」気取り)氏 wrote:
> 澤藤氏の告発動機はプライベートな問題である。大問題のように書き立てている問題も自分達が「排除」されなければ明らかにするつもりがなかったのではないか、という点で攻撃側はホイッスル・ブロワーには値しない。
 
林田氏が「評論家」気取りでさもそれが問題でもあるかのように批判している「澤藤氏の告発動機はプライベートな問題」(「私怨論」)という批判については、このメーリングリストでも何度も引用、紹介しているものですが、ほかならない澤藤弁護士自身の反論があります。次のようなものです。
 
「さらに、『私怨論』というべき批判がある。私が、自分の息子のことだから、怒っているのだという指摘だが、これが『批判』になり得ているのだろうか。不当な権利侵害があれば、被害者側に『私怨』『私憤』が生じるのは当然だ。『私怨』論は、傍観者の自己正当化の理屈でしかないだろう。『大所高所』論に対応するには、『私怨』『私憤』重視論である。私は、人権侵害を批判するには、被害者の『私怨』『私憤』に共感する感性が必要だと思う。」
 
上記にいう「大所高所」論とは澤藤弁護士によってさらに次のように反批判されているものです。
 
  「『大所・高所』論とは、弱者の権利救済をネグレクトし、泣き寝入りを強いることを合理化する論理だと私は思う。将の論理であって、兵の論理ではない。体制の側の論理であって、弱者の側の論理ではない。『大所高所』論には、個別の権利侵害に対する怒りで対抗しなければならないと思う。」(同上)
 
「不当な権利侵害があれば、被害者側に『私怨』『私憤』が生じるのは当然だ」。それをさも問題であるかのように言挙げする論理は「弱者の権利救済をネグレクトし、泣き寝入りを強いることを合理化する論理」「体制の側の論理であって、弱者の側の論理ではない」と澤藤弁護士は反批判しているのです。林田氏はここで澤藤弁護士が民主主義の問題として指摘していることの意味をまったく理解していないようです。というよりも、理解できないようです。「民主主義」というものの本質について深く考えたことがないからでしょう。そういうおのれの無知と怠慢を恥じ入ることなく、人さまをその無知によって平然と批判する。林田氏はおのれの無知をもっと深刻に恥じ入るべきでしょう。

林田氏はまた、「(澤藤氏が)大問題のように書き立てている問題も自分達が『排除』されなければ明らかにするつもりがなかったのではないか」とも批判していますが、この批判も誤っています(「事実」を確かめずにウソを言っています)。
 
これもすでに紹介しているものですが、澤藤弁護士は「人にやさしい東京をつくる会・運営会議」から「排除」される以前から宇都宮氏と上原公子氏(宇都宮陣営選対本部長)を批判する記事を数本書いています。澤藤弁護士は「運営会議」から「排除」される以前から同「運営会議」メンバーの批判記事を書いていたから「排除」されたと見た方が「事実」に近いのです。それを「事実」関係など調べもせずにおのれの主観だけで人さまをやはり平然と批判する。そして、恐れ入ることに自分自身は「評論家」気取りでいる。笑止千万とはこういうことをいうのでしょう。
 
以下は、澤藤弁護士が「人にやさしい東京をつくる会・運営会議」から「排除」される以前から宇都宮氏と上原公子氏を批判する記事を書いていた証拠です。
 
「澤藤統一郎の憲法日記」2013年7月18日付け記事より:

「宇都宮君は、上原公子さんと並んで「緑茶会」という脱原発市民運動団体の結成呼びかけ人となっている。この「和製ティーパーティー」は、参院選で脱原発の候補者を選別し調整して、当選可能性の高い候補者を支援することが目的だという。
 
この会のホームページで、上原さんは、設立呼びかけのメッセージとして、「国民の不幸は2つある。国民を守るべき政府が、国民を置き去りにしていること。選ぶべき信頼(に)堪えうる政党がないことである」と言い放っている。この人、社民党から参院選に立候補して落選した経験があるはずだが、社民だけでなく、共産・みどり・生活・緑の党まで含めて、すべての政党を「信頼に堪えうる」ものでないというのだ。この人の頭の中では、「政党」と「市民」とは水と油のごとく親和せざるものとなっているのだろう。
 
もちろん、政治信条は人それぞれに自由、表現も自由だ。上原さんの言動を怪しからんというつもりはない。しかし、言論には責任が伴う。この人は革新陣営の共同行動を呼び掛けるにふさわしい人ではなく、この人の呼びかけによる運動に信を措くことはできない。「信頼に堪えうる」政党がないという人の呼び掛けに、のこのこ応じる政党人の見識も問われることになるだろう。
 
緑茶会は「脱原発候補が複数立候補する選挙区においては、当選確率がより高いと客観的に判断できる候補を推薦する」として、東京選挙区では、大河原まさこ候補(無所属)だけを推薦している。吉良よし子候補はもちろん、その他の「脱原発・原発ゼロ」を掲げる候補の推薦はない。端的に言えば、有権者の脱原発票を大河原候補に集中しようとしているのだから、排他性の高い運動となっている。大河原候補を推薦したければ、その実績や政策を訴えればよいこと。同候補を「当選確率がより高いと客観的に判断できる」などとまで根拠のないことを言って、脱原発志向の有権者を惑わせるのは罪が深い。
 
宇都宮健児君も緑茶会設立呼びかけ人の一人である。東京選挙区では、「当選確率がより高いと客観的に判断できる」大河原候補に脱原発票を集中するように呼び掛けている立ち場にある。この排他性の高い運動の呼びかけは、吉良候補への応援とは両立しない。敢えて吉良候補への支援の弁を赤旗に掲載したことを評価するとして、緑茶会呼びかけ人としての立ち場は放棄したのか、そうでないのか気にかかるところ。革新共闘の要に位置した人として、排他性の高い運動に加担してはならない。その辺のケジメを大切にしていただきたい。」(「参院選・投票日まであと3日ー脱原発を願う有権者の皆様に」澤藤統一郎の憲法日記 2013年7月18日)
 
「澤藤統一郎の憲法日記」2013年12月17日付け記事より:

「私は柄にもなく昨年の都知事選挙で、宇都宮陣営の選対に加わった。これまで経験のないことで、右往左往するばかりだったが、「惨敗」の結果は驚愕だった。ダブルスコア、トリプルスコアという語彙は知っていたが、4倍を遙かに超える票差をどう表現するのかを知らない。なぜ、こんなに大差で負けたのか。選対の公式総括には納得が出来ず、何人もの人に尋ねてきた。最も多くの人の意見は、「知名度の差」だ。「最初から勝負にはならないことは分かっていたでしょう」「勝敗よりは、共闘の形だけが欲しかったのでしょう」などと、私には衝撃の言葉を聞かされた。続いての意見は「石原都政が批判に値するほど悪いと思われていなかったから」という、これはとても不愉快なもの。
 
惨敗の原因が「知名度の不足」だとすれば、候補者選択の時点で既に勝負あったということになる。猪瀬退陣が現実味を帯びてきた今、リベラル派の候補者を模索しなければならないが、前回選挙と同じ候補者では同じ轍を踏むことにならざるを得ない。本気で勝つためには、知名度の高い、有権者に魅力のある候補者を擁立しなければならない。本気で勝つ気はないと思われる候補者選びや、共闘の形づくり、惨敗の反省がないなどと言われる恐れのある選挙母体であってはならない。前回選挙とは総入れ替えした清新な選挙母体で、勝てる候補者の人選をしなければならない。当然のことながら、昨年の惨敗の責任の一端を負わねばならない私などは、新たな選挙に関わらない方が良いと思っている。」(「2012年総選挙・都知事選-あの敗北から1年」澤藤統一郎の憲法日記 2013年12月17日)
 
また、当事者でもないのに「その告発される内容に法的な問題がないことは2014年1月6日に声明を出す予定である」と当事者のようにふるまって書くのはどういうことか? この人の節操のなさをさらに示しているでしょう。
 
さらにまた、「過激な左が批判することによって、宇都宮氏は政策面ではぶれることなく、中道寄りにシフトできる」「『革新統一の候補としてふさわしくない』キャンペーンが熱心に行われることで、逆に市民派として応援しやすくなる」とはどういうことか? また、この人のいう「中道寄り」「市民派」とはどういうものか? 上記で澤藤弁護士から批判されている「緑茶会」のごときものをいうのであろうことは明らかです。
 
さらにまた、「弱者の権利救済をネグレクトするな」「泣き寝入りを強いることをやめよ」という当然な民主的な「叫び」と「批判」を「過激な左」などと中傷するこの人のいう「中道寄り」「市民派」なるものが「革新」でありえるはずがないことも明らかというべきでしょう。
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