私はこれまでCMLという全国規模の公開型メーリングリストに澤藤統一郎弁護士の「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」という連載記事の主要な論点を紹介してきたのですが(もちろん、私以外にもそういう人はいらっしゃいます)、その澤藤氏の主張を反批判する記事(ただ「反批判したい」という気持ちだけが伝わる体のもので、内容はありません)の投稿が今日(2日)同メーリングリストに立て続けにありました。
 
澤藤氏は常識を知らない。
・Re: 澤藤氏は常識を知らない。:()()()(
 
上記の投稿群は石垣敏夫氏の以下のような意見を契機にしたものでした。
 
「宇都宮健児氏が都知事にふさわしくなかったら、自分が立候補するなり、他の方を推薦することでしょう。これが常識です。ベストの人などいません・・・」
 
しかし、この投稿群の契機となった石垣氏の意見は「正しい」といえるものでしょうか? 私はまったく正しくないし、的外れも甚だしい。逆に強い反省を促がさなければならない論だと思います。
 
以下は、その私の反論の要旨です。
 
実は石垣氏などの批判を含む澤藤氏批判については、澤藤氏自身の反論があります。私の意見を述べる前にまず澤藤氏自身の再反論をご紹介しておきましょう。2013年12月31日付けの「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい-その11」の中にその再批判はあります。次のようなものです。
 
「ところで、私の覚悟のブログに対して、理解を示してくれる人が多数いることはまことに心強い。しかし、予想されたとおりに批判の意見も当然にある。私は、その批判の意見を一蹴しようとは思わない。真剣に議論するに値する問題点を含んでいると思う。
 
まず、批判のパターンとして「大所・高所」論がある。「随行員の任務外しなど、大したことではない。もっと大所高所に立って、革新統一の選挙の成功に尽力すべきだ」というもの。「大所・高所」論とは、弱者の権利救済をネグレクトし、泣き寝入りを強いることを合理化する論理だと私は思う。将の論理であって、兵の論理ではない。体制の側の論理であって、弱者の側の論理ではない。「大所高所」論には、個別の権利侵害に対する怒りで対抗しなければならないと思う。
 
よく似たものに、「利敵行為論」がある。「そんな内輪の争いをしていると、保守派に漁夫の利を得しめることになる」というもの。不思議なことに、こんなことを口にする人々は、権利侵害をした「加害者側」にはものを言わない。必ず、弱い立場の「被害者」側に向かって、泣き寝入りを強いるのだ。これにも、反論しなければならないと思う。なによりも、「争い」という捉え方が間違っている。問題は、「争いがあること」ではない。「権利侵害があったのかどうか」なのだ。
 
「宇都宮君が立候補決意までの批判ならよい。しかし、立候補を決めたからには、もう批判をよして、彼を推すべきだ」という立論もあるようだ。これは、開戦以前のインターナショナリズムが、開戦とともにナショナリズムに転向した、あの敗北の思想だ。非常事態だからという「大政翼賛思想」でもある。また、自民党改憲草案にある「緊急事態には人権制約もやむを得ない」という、あの挙国一致の論理だ。
 
とにもかくにも「共闘の形を大切にしよう」という立論もあるようだ。弱者の権利侵害の訴えに耳を傾けようとしない候補者を推しての「共闘」に、何の価値があるというのだろうか。内実を伴わない形だけの共闘は、将来に繋がるものはない。
 
さらに、「私怨論」というべき批判がある。私が、自分の息子のことだから、怒っているのだという指摘だが、これが「批判」になり得ているのだろうか。不当な権利侵害があれば、被害者側に「私怨」「私憤」が生じるのは当然だ。「私怨」論は、傍観者の自己正当化の理屈でしかないだろう。「大所高所」論に対応するには、「私怨」「私憤」重視論である。私は、人権侵害を批判するには、被害者の「私怨」「私憤」に共感する感性が必要だと思う。」
 
上記の石垣氏の澤藤氏批判は澤藤氏の反論している「大所・高所」論に近いものがあるでしょう。すなわち、「もっと大所高所に立って、革新統一の選挙の成功に尽力すべきだ」という論は、「大所高所」という名のもとに「弱者の権利救済をネグレクトし、泣き寝入りを強いることを合理化する論理」になるほかない詭弁だということです。
 
「人権派」を自ら称する者であるならば、「弱者の側から権利侵害の訴えがあったときには、まず「被害者」の側に寄り添って、その言い分に十分に耳を傾けなければならない。それが人権派たる者の基本姿勢。そのうえで、「加害者」の側の言い分を批判的に検討して、解決策を探らなければならない。前回選挙の最終盤で生じた、二人のボランティア運動員に対する「随行員任務外し」の訴えには、真摯に耳を傾けるべきが当然であった。しかし、宇都宮君は、その訴えを真摯に聞こうとはしなかった」。また、「宇都宮選対(具体的には上原公子選対本部長と熊谷伸一郎事務局長)の「小さな権力」を振りかざしての恣意的な「随行員の任務外し」を「大所高所」に立って、ということで、「なにもなかったこと」にすることを「適切な措置」などということはできますか? そうした「論理」も「弱者の権利救済をネグレクトし、泣き寝入りを強いることを合理化する論理」というほかないでしょう。
 
また、「大所高所」に立って、という論理で、他の大多数のボランティアは「無償の労務提供」をしているのに、宇都宮陣営選対の上原公子選対本部長と服部泉出納責任者にのみ「労務者報酬」という名目で報酬を支払っていた、あるいは両者が報酬を受領していた(ほかにも報酬を受領していた人はいるようです。この件は一例にすぎません)一件を「なにもなかったこと」にすることは道理に適うことでしょうか? これも「正義感覚」のネグレクトとでもいうほかないものでしょう。こういうことは権力者の圧政と横暴、住民無視の姿勢を糾弾する立場にいる「革新」陣営のすることとはいえないでしょう。「大所高所」という論理でこういうことを「なかったことにする」ことは「革新」の道理に反することです。許してはなりません。「許す」ということは自らが「革新」の立場を棄てるということと同値です。
 
さて、以上、澤藤弁護士の「大所高所」論批判をご紹介し、その解説を若干しましたが、石垣氏の上記の論は「宇都宮健児氏が都知事にふさわしくなかったら、自分が立候補するなり、他の方を推薦することでしょう」というものですから、直接的には「対案を示せ」論、「対案主義」論というべきものです。次にその「対案主義」論の愚かしさについて述べます。
 
が、その前に「自分が立候補するなり」云々という批判の部分についてひとこと述べておきます。澤藤弁護士は単に立候補者の人品を問題にしているのではありません。澤藤弁護士は「革新統一」候補として今度の東京都知事選で「保守・反動」勢力に「勝てる」候補(すなわち、革新都政の実現)を問題にしているのであり、前回の都知事選では猪瀬直樹の4.48分の1しか得票することしかできなかった宇都宮氏では、その他の候補者としての素質の問題も含めて「勝てない」ということを第1の問題にしているのです。だから、「自分が立候補」して「勝てる」という見込みがあれば澤藤氏も自らの立候補の問題も忌避するものではないでしょうが、自分では「勝てる」見込みがないと思うから自らの立候補の意思を示さない、示しえないのだと思います。これは澤藤氏が「無責任」だという問題ではありません。話を意味のないところに落とし込んではいけません。石垣氏の論は的外れも甚だしい論というほかありません。
 
次に「対案主義」論の愚かしさについてです。
 
まず「対案主義」論をよく口にするのは保守・右翼勢力の大きな特徴のひとつであるということについて留意しておく必要があるでしょう。安倍政権や読売新聞などの保守勢力が革新勢力の「原発ゼロ」の主張について、その反論として執拗に「対案になっていない」「エネルギー需給の対案を示せ」と言ってきたことはよく知られている話です。小泉純一郎をはじめとしてこれまでの権力者はなにかといえば「対案を示せ」「対案を示せ」と問われている論点を逸らす重宝な話法として偏愛してきました。
 
しかし、仮に「対案」がなくとも「反対」意見を言うことは当然可能です。というよりも、たとえば映画にもなりましたが、都市のど真ん中に「原発」をつくると行政が言い出したらそれに反対するのは当然の営為というべきでしょう。「あまりにも危険ではないか」、と。そこで行政は次のように言います。「では、どこに『原発』をつくればよいというのか。対案を示せ」、と。
 
しかし、「対案」なり「ビジョン」を市民に示すのは本来行政の責務というべきものです。「どこに『原発』に適した立地条件のよい場所があるのか」。そんなことを一般の市民が知るよしもありません(もちろん、そんな場所などあるはずもありませんが)。当然のことですが、「対案」などなくとも市民は「意見」を言う権利を有するのです。「対案主義」を強要するのは民主主義というものを知らない愚者(だから、「対案主義」の強要はこれまで保守・右翼勢力の大きな特徴のひとつであったわけです)のいうことです。
 
もう一点。「いまの時点で、「では?他に誰を?」という選択肢が、東京都民にあるのかどうか。「すこしもましでない」新自由主義候補者を利するような結果をまつのか、「すこしはまし」な市民と革新政党が共同できる候補者をおすのか」というみね氏のようなご意見もありますが、このみね氏の主張は主に「利敵行為論」とでもいうべきものですが、こうした主張の陥っている陥穽については上記ですでに澤藤弁護士が略述していますのでその澤藤弁護士の論をご参照ください。ここでは繰り返しません。
 
最後に私たちはなにゆえに「革新都政」を実現しなければならない、と考えているのかという問題について。それはいうまでもなく、「個の確立を阻んでいるもの」「民主主義を阻んでいるもの」と対峙し、真の「個の確立」と民主主義を実現するためです。最後に澤藤弁護士の言葉を再度引用しておきます。「個の確立の敵は、国家権力だけではない。多重の階層をなしている集団、あるいはその多数派も個を圧迫する。その各階層の各集団に成立する「小さな権力」への抵抗なくしては、個の確立はない」。
 
附記:
石垣氏が都知事候補者として推奨している三宅洋平なる人物についてもひとこと述べておきます。すでにこ過去のエントリでも数回にわたって述べていることですが、三宅洋平なる人物は以下のようなトンデモデマを信じ込み、かつ、そのデマを理性もなく拡散しているような人物です。とうてい都知事候補にふさわしい人物とはいえません。仮に三宅洋平氏が都知事になるものならば(もちろん、そういうことはありえないと思いますが)東京都政にトンデモが蔓延する不幸な事態が現出するだけです。愚かしい限りの主張といわなければなりません。
 
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「不正選挙」デマ
http://twileshare.com/atct
*「不正選挙」論が単なるデマ情報でしかないことは多くの人から論証され尽くされていることですが、そのひとつとして以下のような記事をご紹介しておきます。
陰謀派が主張する、2012年衆院選「不正選挙」説を検証する
 
■「地震兵器」デマ
*この情報の流布も単なるデマの流布でしかない例証のひとつとして以下の記事もご紹介しておきます。
HAARPは人工地震兵器ではありえない!その理由とは!?
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