過日、私は、「vanacoralの日記」の「山本太郎「信者」の馬鹿さ加減、ここに極まれり」(2013-11-10)という記事をCMLというメーリングリストに私のコメント抜きで転載させていただきました。
 
その私の転載記事に対してまっぺんさんという人がこちらの記事のような反論的論評を寄せられてきました。
 
以下は、そのまっぺんさんの論に対する私の応答(反論のようなもの)です。ご参考に供させていただこうと思います。
 
山本太郎3  

まっぺんさん
 
あなたは次のように言います。「私は単なる「評論家」ではなく行動する市民として、すこしでも良い方向に事態が進むために努力しようと思っています」、と。そのあなたの声明に私はもろ手をあげて賛成します。しかし、「私は単なる『評論家』ではな」いというそのあなたの言表の中にはなにやら山本太郎を批判する私(たち)を「単なる『評論家』」と批判(揶揄)するまなざしも含まれていますね。しかし、そうではありません。しかし、そうではない、というのは、ひとつの例をあげて言えばこういうことです。


私が標記の便で転載させていただいている「vanacoralの日記」の主宰者は、同ブログのプロフィル欄によれば「元民主党の熱烈な支持者」で、「今では90年代に支持してた共産党に出戻り支持して」いるという経歴をお持ちの人のようです。また、同ブログ記事を軽く拾い読みするだけでもすぐにわかることですが、同氏は毎週のように脱原発デモにも参加している積極的に「行動する市民」のおひとりでもあるようです。そういう意味では、この人も、「すこしでも良い方向に事態が進むために努力しよう」としている市民のおひとりだということができるでしょう。その人が「山本太郎「信者」の馬鹿さ加減、ここに極まれり」という記事を書いて警鐘を鳴らしているのです。私もその
彼(彼女)の記事を同意をもって転載させていただいているわけですから、彼(彼女)らと同様の考え方を持っている。すなわち、まっぺんさんともほぼ同様の考え方をしているということはおわかりいただけるでしょう。そのように考える私たちがなぜ「山本太郎『信者』」を批判しているのか、しようとするのか。そのことの意味を考えてみていただきたいのです。
 
私(たち)は山本太郎を今回の件だけで批判しているのではありません。たとえば私のことで言えば、私は、3・11以来、山本太郎の行動の軽率さ、軽薄さについて相当回数にわたって批判し、警告する記事を書いてきました。たとえば、ごく最近の記事でも山本太郎について次のように書いています。
 
「こういう「ふつうの目」を持っていれば、私は、山本太郎の「放射能デマ」に加担した行為に目をつぶったり(注1)、藤原紀香の「秘密保護法」反対発言を過剰に評価したり(注2)、堤未果をこれまた過剰に評価したり(注3)、さらにはまた、小泉純一郎をこれまた過剰に評価したり(注4)などなどの現象(私は「負の現象」だと思っています)は起こりえなかったはずだと思うのです」(弊ブログ 2013.11.04
 
注1:「デマッターとしても著名な山本太郎さんが、ついに選挙演説でもデマをまきちらし始めた」(2013年07月17日更新)
 
上記の注では山本太郎は次のようにも批判されています。
 
「福島第一原子力発電所事故は大きな爪跡を残した。政府や電力会社による隠蔽は追及されるべきだが、その一方で、科学的根拠なしに放射能の危険性を煽り、いわれなき「福島差別」を生んだことは到底看過できない。」(中川恵一・東大医学部准教授)
 
「山本太郎の言動に、困っている被災地や他自治体の人たちの声/相馬市長の訴え 「根拠のない、過激な発言が、福島の人々をどれほど深く傷つけているか知ってほしい」(上昌広・東大医科学研究所特任教授)
 
「福島にいる医学者たちからの、こういう意見を過激な脱原発の人はどう思って読むんだろう。 / “相馬市長の訴え 『根拠のない、過激な発言が、福島の人々をどれほど深く傷つけているか知ってほしい』(上 昌広)」(津田大介・ジャーナリスト)
 
もう一例だけあげると、これは山本太郎ひとりに限ったことではありませんが、そのほかにも次のような批判もあります。
 
「他地域から立地地域に来て抗議する人たちは、言ってしまえば『騒ぐだけ騒いで帰る人たち』です。震災前からそう。バスで乗りつけてきて、『ここは汚染されている!』『森、水、土地を返せ!』と叫んで練り歩く。/農作業中のおばあちゃんに『そこは危険だ、そんな作物食べちゃダメだ』とメガホンで恫喝(どうかつ)する。その上、『ここで生きる人のために!』とか言っちゃう。ひととおりやって満足したら、弁当食べて『お疲れさまでした』と帰る。地元の人は、『こいつら何しに来てるんだ』と、あぜんとする。」(開沼博・福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特別研究員)
 
上記のように山本太郎の軽率、軽薄な行動は、「反原発」の「味方を増や」していくどころか実際としては逆に「味方を減らし」「敵を増や」す作用しか果たしていないと見た方が正鵠を射た見方というべきでしょう。そう言うが、先の参院選の東京選挙区(定数5)では山本太郎は66万6684票もの東京都民の支持を得て堂々4位で当選したではないか。それが「味方を増や」しているなによりの証拠ではないか、という反論があるかもしれません。
 
しかし、これは藪田さんが紹介されている論攷(CML 2013/11/12)ですが、「山本が獲得した約六十六万票のうち、その半数近くはもともと東京に存在した社民党系の基礎票を土台としたものであり」、「山本が選挙中に積み増した残り三十万人」は、「山本や三宅の脱原発の頓狂な部分ではなく、憲法や若者を肯定する闘争性のない、表面上は実にファッショナブルで温和な部分」に共鳴する「そもそも『思想』すら持たない人たち」。「戦後日本という時代のなかで、大都市で、高所得世帯に生まれ、何不自由なく飼育された人間たちが、その余裕から、それがサヨクであるとも知らずに外から見れば過激で、時に空想的で、馬鹿げた護憲平和思想の虜になっていく」。「まさしく、戦後日本の宿痾のような人種。それが山本を当選させ、三宅に大きな力を与えた元凶であったように思う」という分析もあります(「誰が山本太郎を当選させたのか――「山本親衛隊」という『宗教』」WiLL 11月1日)。この論者は、要するに山本太郎の当選は、「そもそも『思想』すら持たない」「戦後日本の宿痾のような人種」がかつての「小泉フィーバー」のときのように「表面上は実にファッショナブルで温和な部分」を本質だと誤解して投票した結果にすぎないと分析しているのです。彼の分析が正鵠を射ているとして(私は正鵠を射ていると思いますが)その投票の結果を単純に「味方が増えた」証拠とみなすことは我田引水の論ということにしかならないでしょう。
 
私は広く大同団結と統一戦線の課題を追求していくためにこそ山本太郎批判は欠かせないだろう、と思っています。また、山本太郎は、「『原発のこと』しか知らない」のではなく、「『原発のこと』も知らない」だけでなく、知らないことについてさらに「デマ」を累加させて振りまくきわめて危うい存在であることは上記でも見たとおりです。山本太郎は「天皇制」の認識の問題についても、「反原発」の認識の問題についても批判されなければならない。そうしなければ「日本が危うい」「福島が危うい(福島差別)」というのが私の認識です。

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