一昨日、私は、「藤圭子の時代の「歌」について 雑感 ――ある人への返信として」という記事を発信しました。が、その記事は藤圭子の時代の「歌」の一側面の断章のようなものでしかありませんでした(藤圭子の「ここは東京、嘘の町」(『女のブルース』)という歌のフレーズの解釈がその記事の主題のようなものでしたから)。
 
さて、あるいはところで、翌日になってパソコンを開くと「藤圭子とその時代、そして今」(藤原新也)という記事が目に飛び込んできました。「飛び込んできた」というのは、昨日に私が書いた記事のテーマによく似た記事の題名が目にとまったからです。だから、「飛び込んできた」。
 
藤原新也さんは写真家でもあり、作家でもある私の郷里(同じ北九州市。といっても、私は若松で藤原さんは門司港出身。それぞれ同市の端と端に位置する。ただ、海峡の町であるところは同じ)の先輩。だからというわけではないのですが、私は比較的若い頃から藤原さんの写真集や著作には親しんできました。彼の『印度放浪』(1972年)や『全東洋街道』(1981年)、『東京漂流』(1983年)を読んで、私は彼の本職の写真もさることながら、彼の文章の才、その文章から自ずからにじみ出る彼の人生観にも魅せられてきました。
 
以下は、その藤原さんの眼でみた「藤圭子とその時代」です。藤圭子はやはり私たち戦後のベビーブーマの世代(藤原さんは1944年のお生まれですが)に間違いなく陰りを落としている。それが「光」であれ「影」であれ。それが60年代終わりから70年代はじめの景色。改めてそういう思いを強くしました。藤原さんは藤圭子の「夢は夜ひらく」の歌声について、「どんよりと滞った沼のような歌の暗さに違和感を覚えた」と書いていますが、その違和感はまたある琴線でのおのれにも通じる哀惜でもあったでしょう。私の藤圭子評価とそう変わるものではないと思っています。

夢は夜開く
  
圭子の夢は夜ひらく

藤圭子とその時代、そして今。(shinya talk  藤原新也 2013/08/26)
 
藤圭子の「夢は夜ひらく」がヒットした70年の春、私はインドから一時帰国していた。
 
女性ボーカルの空に抜けるようなインド歌謡の明るい歌を長い間耳にしてきた私は、そのどんよりと滞った沼のような歌の暗さに違和感を覚えたものである。
 
 
赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく
 
十五、十六、十七と
私の人生暗かった
過去はどんなに暗くとも
夢は夜ひらく
 
 
この歌が大ヒットした背景は70年安保の終焉と無縁ではないだろう。
 
69年1月に安保闘争の象徴だった東大の安田講堂が陥落し、やがて一連の闘争は終焉を迎えた。
 
その後は連合赤軍によるハイジャックや成田の三里塚闘争など部分的は闘争はあったが、安保闘争に熱狂した若者の多く(主に団塊の世代)は挫折の中で悶々とした煮え切らぬ時代と添い寝することとなる。
 
 
”しらけ”という言葉が生まれたのもこのころである。
 
そして佳子の「夢は夜ひらく」のあとには井上陽水の「傘がない」や吉田拓郎の「結婚しようよ」などがヒットする。
 
 
都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた だけども
問題は今日の雨
傘がない
行かなくちゃ
君に逢いに行かなくちゃ
テレビでは我が国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる
だけども問題は今日の雨
傘がない
行かなくちゃ
君に逢いに行かなくちゃ
 
 
僕の髪が肩までのびて
君と同じになったら
約束どおり 町の教会で
結婚しようよ
 
 
藤圭子の「夢は夜ひらく」はリアルタイムで聴いているが、井上陽水の「傘がない」や吉田拓郎の「結婚しようよ」がヒットしていた72年はすでに日本を離れていたので、これらの歌の小耳に挟んだのは後年のことである。
 
”どう咲きゃいいのさ この私 夢は夜ひらく”という安保闘争終焉直後の苦悩と逡巡から、シラケという言葉が流行った71年の翌年の、陽水の歌う”国家問題や若者の自殺のニュースより、恋人に会ひに行く傘”の方がずっと切実、という自己韜晦(とうかい)はおそらく安保闘争に関わった団塊の世代の無意識を代弁していたのだろう。
 
団塊の世代の上にあたり、シラケの時代に日本不在だった私は斜に構えた陽水の歌にも違和感を覚えたが、のちに聴いた吉田拓郎の”僕の髪が肩までのびて君と同じになったら町の教会で結婚しよう”という歌はただ気持ち悪い歌だった。
 
私はインドではサドゥ(修行僧)と同じように髪を背中の半分くらいまで伸ばしていた。
  
それは世の中の常軌とは一線を画するというシンボルのようなものだった。
 
恋人とゴールインするためのファッションとしての拓郎の歌の中の髪は同じ長い髪でもずいぶんと異なっており、それも安保闘争のひとつの行き着く先ということなのだろうと思ったものだ。
 
そんな70年安保挫折以降の、つまり大命題を避け、ミニマリズム(自分周辺)の中で自足するという闘争以降の団塊の世代的生き方は、その後の若者の生き方のモデルになったと言えなくもない。
 
そればかりかかつてゲバ棒を持って国家や企業の欺瞞に反旗を掲げた者がシラケ後は企業の販促活動に参加するという糸井重里のような者も数多く輩出した。
 
そういう意味で”自分はかつて若者のころは云々”という武勇伝を下の世代に自慢し、若者のミニマリズムを非難するこの態度には腐臭をすら感じる。
 
 
先日、フランスのジャーナリストに会う機会があった時、フランスのテレビ局で原発問題に言及する日本のアーティストや作家の特集を組みたいのだが、どういう人がいるかと問われた。
 
私の知識が不足しているのか、その質問を受け、名前や顔が思い浮かばないことに焦りを感じた。
 
原発問題に触れない知識人、作家、アーティストに表現者としての資質を問うというのは傲慢だとも思う。
 
だがまた思うに原発問題という国家や文明や自からの子孫の存続をも脅かす、この逼迫した”人間の問題”にまるで(放射能すらない)他の世界の空気でも吸っているかのように一切言及しない表現者が多いこの国の風景も異様だとも思う。
 
団塊の世代ではないが作家では浅田次郎やアーティストでは故忌野清志郎や坂本龍一、沢田研二(団塊の世代)などが正面から発言をしているが(おそらく他にもいるだろうが)たとえばノンフィクション作家の沢木耕太郎が原発問題に言及したという話は聞かないし、村上春樹が震災や原発に言及したとしてもそれは”押さえ”としてのコメントの域を出ない。
 
そういう意味では70年代の若者の意識を代弁した陽水の歌の歌詞に見る自己韜晦は2000年代の今においてもトラウマのようにいまだに尾をひいているということだろう。
 
 
藤圭子の自殺を知って走馬灯のように脳裏に去来したのは、なぜか安保以降のそんな時の流れだった。
 
だがきわめて70年代的であったと言える藤圭子という表現者はシラケや自己韜晦とは無縁な人だった。
 
彼女はずっと暗かった。
 
自殺という結末はさらにそのイメージを倍加してやまない。
 
が、私はそんな藤圭子の信じられないくらい異なった姿をこの目で見ている。
 
アメリカを旅した83年、ロスアンゼルスはメルローズ通りのとあるレストランに入ったおりのことである。
 
私のテーブルから3つ先のテーブルに偶然藤圭子が居た。
 
主人とおぼしき人と向かい合わせに座っていて、藤圭子は生まれたての赤子を抱いていた。
 
その赤子はのちの宇多田ヒカルである。
 
圭子は笑っていた。
 
日本のあらゆる場面で見た佳子のそれからは想像できないくらい明るい笑顔だった。
 
白い歯が眩しかった。
 
カメラは持っていたが、その異国というサンクチュアリでの彼女の至福を邪魔しないように、写真は撮らなかった。
 
当然挨拶もしなかった。
 
自殺の報を聞いた時、私の脳裏に浮かんだ佳子の顔は、日本人の中に固着した70年の怨歌を歌うあの彼女のこわばった顔ではなく、なぜかカルフォルニアの明るい陽射しが窓から降り注ぐ中の、あの笑顔だった。
 
 
旅の途上、一瞬袖振り合った彼女のその隠し立てのない素顔を記憶する私は、なぜか知己のヒトのようにその死を痛む。
 
ゆっくりお休みください。

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