下記はあるメーリングリストで私を「たかが・・・・」と論評する人に宛てた私の反論のような文章です。その反論を反論自体としてここに紹介することに意味を感じませんが、その中で私は小田実の「人間みなチョボチョボや」という人間観をとりあげています。その小田の人間観(もちろん、私が見た小田の人間観ということになりますが)を紹介することは意味のあることだと思います。(宛名人の名前は省略します)

人間は誰もが「たかが」の存在だと私は思っています。そういう意味で「たかが・・・・」というあなたの指摘には私には異議はありません。故小田実はもう40年以上も前から人間は誰もが「たかが」の存在であることを「人間みなチョボチョボや」という彼流の言葉で言い続けていました。40年以上も前からというのは私が彼の本をはじめて手にしたときから、という意味です。その故小田実のホームページがまだ遺されていて、その頁の下の方に彼の全集(全82巻)創刊の案内があります。その全集の内容をひとことで表現する言葉としても編集者によって「人間みなチョボチョボや」という言葉が選ばれています。

人間は誰もが「たかが」の存在であること、みなチョボチョボであるという認識は、考えてみれば当たり前すぎるほどの認識というべきですが、小田のエライところはその当たり前の志節を生涯持ち続けたことにある、と私は思っています。

その小田がなぜ「たかが」という言葉を用いずに「チョボチョボ」と言い続けたか。それはひとつには彼が関西人であったということがもちろん要素としてあるでしょう。お国ことばの表現というわけです。しかし、もっと重要なことは、「たかが」という言葉はなにかとなにか(たとえば地位、職業、学歴、富裕と貧困・・・・)を比較する際に用いられる表現であるということが大きかっただろうと私は思っています。人間は比較される存在ではないのです。あなたではない私、私でないあなた、そのかけがえのない一個の生として尊重され、いとおしまれるべき存在といわなければならないように思うのです。

「たかが」という言葉には、もちろん遣われ方にもよりますが、その一個のかけがえのないの生をもしかしたら侮る思惟、差別を容認する思想に転化しかねない危うさを持っているように思えます。そのことに気づいていたからこそ小田は決して「たかが」という言葉を用いず、「チョボチョボ」という言葉を好んで用いたのではなかったでしょうか? 左記は私のあてずっぽうな推量にすぎませんが、あなたに考えていただきたいことです。
関連記事
Secret

TrackBackURL
→http://mizukith.blog91.fc2.com/tb.php/64-09c78175