私の参加しているあるメーリングリストに先日公開が始まったばかりの宮崎駿監督の「風立ちぬ」という作品について「反・反戦映画」である同作品をなぜ批判しないのかというかなり無理筋の批判がありました(同批判の内容はこちらでご確認ください)。
 
以下、その論が無理筋の論たるゆえんを述べた私の反論です。少し調べてみると、その無理筋の論の火元の論はどうやら政治学者の藤原帰一氏(東大教授)が発したもののようです。その藤原氏の論への異論もあわせてご紹介させていただこうと思います。

ただ、宮崎駿監督の「風立ちぬ」は、私がこれから観ようと思っている作品ですから、私自身としてはいまのところ誉めることも貶すこともできません。以下は、作品鑑賞以前の問題としての問題です。それでも重要な問題ですのであえて書くことにしました。私が宮崎作品ファンということもおおいに与かっています。そのこともこの際前もって白状しておきましょう。

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私は宮崎駿監督作品の「風立ちぬ」はまだ観ていませんので、私の「風立ちぬ」鑑賞評を述べることはできませんが、下記のあなたの文章に即していくつかのことを述べさせていただこうと思います。
 
まず、あなたは、「反戦の立場であるCMLで、なぜ宮崎駿の『風立ちぬ』を批判する声が聞こえてこないのでしょう?」という疑問を提起します。左記は、宮崎駿監督の『風立ちぬ』作品は「反戦」の映画ではないというあなたのご意見の裏返しの表明ということにもなりますが、宮崎駿監督も所属するスタジオジブリが最近発行した小冊子『熱風』(2013年7月号)には「憲法を変えるなどもってのほか」と題された同監督の論攷(談)も掲載されています。その論攷のはじめの部分で宮崎監督は次のような「反戦」の思想を述べています。
 
「僕は1941年生まれですが、(略)子どもの頃は「本当に愚かな戦争をした」という実感がありました。実際、日本軍が中国大陸でひどいことをしたというのを自慢げに話す大人がいて、そういう話を間接的にではあっても何度も聞きました。同時に空襲でどれほどのひどいことになったかというのも聞きました。伝聞も含め、いろんなことを耳にしましたから、馬鹿なことをやった国に生まれてしまったと思って、本当に日本が嫌いになりました。」
 
宮崎監督は同論攷の中で自衛隊を合憲と考える立場も表明していますが、同監督は上記の記述からもわかるように基本的には「反戦」の立場の人です。「風立ちぬ」作品を「反動映画」のように言うのは適切ではないと考えます。
 
あなたが同作品を「反動映画」とみなす根拠も説得力のあるものではありません。あなたが同作品を「反動映画」とみなす理由の第一は「『風立ちぬ』は零戦設計者の話といいながら悲惨な話になるから零戦は登場させ」ないというものですが(後で述べますが、実際は、「主人公が設計した零戦の末路も出てきている」とのことです)、零戦の登場、非登場が「反動映画」かどうかの判断の基準になるはずもありません。むしろ、「反動映画」の多くは戦闘機及びその空中戦のシーンを必要以上に描くというのがふつうのパターンでしょう。
 
また、「戦時中に戦争に強くかかわった実在の人物の話なのに戦争の様相や意味はまったく描写」がないというのも、同作品を「反動映画」とする根拠にはならないでしょう。これも実際の「反動映画」は「戦争の様相」を執拗に描くというのがふつうです。「反動映画」は「戦争の意味」についても必要以上に「八紘一宇」的な意味を負託させます。「様相」は逆のケースの方が多いのです。
 
「飛行機は兵器じゃない純粋に美しいモノだ」と主人公に夢の中で言い訳させる」ことも、あなたが同作品を「反動映画」とする理由のひとつになっていますが、どういうシチュエーションで同場面が描かれているのかの検討なしに左記のように言ってもナンセンスです。また、「病身の恋人にただ男に尽くす事を要求する、酷い男尊女卑映画でもあります」とも言われますが、これもシチュエーション抜きで論じてもナンセンスです。ある男が山で遭難して.九死に一生の生を得て帰還したときに、親友のひとりが愛情表現として涙ながらに「馬鹿」と叫ぶシチュエーションだってあるわけですから(映画ではよくあるシーンです)。
 
もう一点。あなたは、毎日新聞日曜版(7月21日付)に掲載された藤原帰一氏の宮崎駿「風立ちぬ」評を自己の主張に合致する論として援用していますが、この藤原帰一氏の映画評には下記のような異論もあります。最後のその文を引用しておきます。
 
「映画評論家」 藤原帰一氏のダブルスタンダード
――『熱波』 と 『風立ちぬ』
(音楽雑記2013年(2) 2013年7月22日)
 
政治学者・藤原帰一 (東大教授) は映画も好きらしい。毎日新聞の日曜版 「日曜くらぶ」 に毎週映画評を載せている。題して 「藤原帰一の映画愛」。
 
政治学者が映画評論やって悪いということはないし、政治学に拘束されない意外な視点など見せてくれればそれなりだと思うのだけれど、先週と今週の映画評を比べてみると、見事なまでに日本知識人のダブルスタンダードが出ていて、所詮この程度かなとがっくりきてしまう。
 
先週 (7月14日) はポルトガル映画 『熱波』 を論じていた。以下、その趣旨を紹介するが、この映画はまだ新潟には来ていないので (映画後進地の新潟なので来るかどうかも分からない)、私は見ておらず、藤原の評論が的確かどうかは分からない。 ここではあくまで藤原が映画のどういう面に目を向けたかに限定して見ていくことにする。
 
この映画、最初は現代のリスボンが舞台だが、やがて50年前のアフリカの農園が舞台となる。つまり、ポルトガルの植民地統治時代が出てくるわけである。
 
ここで藤原は、ポルトガルによる植民地統治時代が倒されようとする時代のことだから、植民地統治がどこかに絡んでくるのだろうと予想したくなるが、そうではない、独立運動も背景としては描かれるが本筋には無関係である、ここに描かれる植民地時代のアフリカは、暴力と圧政どころかポルトガル人が自由に豊かに暮らした地上の楽園として描かれている、と述べている。植民地時代の過去は人間らしいドラマが展開されるのに対して、現在は索漠とした時間が流れている。実際、現在が舞台の第一部には 「楽園の喪失」、第二部には 「楽園」 という題が付けられている。 こう紹介した上で、藤原は 「なんだか、ヘン、ですね」 と書く。
 
そのあと、藤原は植民地化を楽園喪失として描いたムルナウの 『タブウ』(1931年)を引いた上で、『熱波』 はムルナウの視点をひっくりかえしたもの、と自説を展開する。 以下、文章をそのまま引用しよう。
 
数多くの植民地支配の中でも、ポルトガルのモザンビーク統治はベルギーのコンゴ支配と並んで最も苛酷なものに数えられますから、白人だけの視点からそれを楽園のように描くなんてとんでもないという気もするでしょう。ですが、ゴメス監督の目的は、植民地統治ではなく、それを失ったポルトガルの現在の表現。苛酷な植民地時代にしか人間らしい人間を見つけることができないという逆説の表現なんですね。それによって、現在に生きる憂鬱を表現しようとしたわけです。
 
これは賢い。植民地解放闘争に翻弄される男女なんて登場したら面白いけどウソになるところですが、そんな手練手管に訴えないで、白人にとって植民地時代は何だったのかをつかまえています。
 
ふうん、と私は思った。 藤原帰一ってそういう見方をする人なのか、と意外な気がしたのである。 それに、論理的に矛盾しているな、とも思った。「苛酷な植民地時代にしか人間らしい人間を見つけることができない」 と言っているけど、苛酷なのは現地人にとって、でしょう? 支配しているポルトガル人にとっては 「苛酷」じゃなく、「楽園」 だったはず。 楽園なら、人間らしい暮らしだと回顧するのは当たり前じゃないの?
 
もっとも、私は上述のようにこの映画を見ていないので、誤解があるのかもしれない。ポルトガル人に搾取されていた現地人にとって苛酷だったのに同時に人間らしかった、のかも知れない。だけど、この映画評を見る限り、50年後に本国でしがない暮らしをしている老婦人が憂鬱にとりつかれているというところから話を始めているのだから、白人にとってそうなのだ、と藤原が言っているとしか思われないんだよね。
 
要は、ずいぶん白人に甘いな、と私は感じたのである。まあ、でもそういう見方もすればできるな、とも。人間って、いくら身勝手で他人にはた迷惑に生きても、後で振り返ってみれば黄金時代って場合もあるからだ。それはそれで一つの見方には違いない。
 
・・・・なんだけれど、こういう、ある意味柔軟な見方は、1週間後の7月21日の映画評になると見事なまでに影をひそめてしまうのだ。この日の映画評の対象は、前日に封切られたばかりの宮崎駿のアニメ『風立ちぬ』 である。 これは私も封切日に見たので、私の見解を含めて藤原の評価を検討したい。
 
宮崎駿の 『風立ちぬ』 について藤原は、絵の美しさは賞賛した上で、しかし「子どもっぽい」 と批判する。子どもが大人の中にも残っていて、大人が見ても子どもの夢に感動する作品というものがある、『魔女の宅急便』や『千と千尋の神隠し』はそういう作品だった、と藤原は述べた上で、次のように書いている。
 
といえ、子どものままでは未熟な大人に過ぎない。子どものまま大人になった人は、自分で向かい合い、学び、行動を選ばなければいけない現実から目を背けているからこそ、子どものままでいることができる。その子どもらしさは美しくありません。
 
夢の飛行機をつくる人生もいいですが、戦闘機の美しさは戦場の現実と裏表の関係にある。 宮崎駿が戦争を賛美しているとは思いませんが、戦争の現実を切り離して飛行機の美しさだけに惑溺する姿には、還暦を迎えてもプラ模型を手放せない男のように子どもっぽい印象が残ります。
 
私はこれを読んでびっくり仰天した。 先週はあれほど白人の植民地支配に対して、論理的矛盾を含めて理解を示していた藤原が、こと日本のアニメとなると、一転して 「政治的な正しさ」 のみで作品評価を行っているからである。白人が登場する映画と、日本人が登場するアニメとでこれほど論調が異なるって、見事なまでにダブルスタンダードですよね。東大教授だからなのか、東大教授なのになのか、その辺は分かりませんけど。
 
それと、藤原はこのアニメの中心を捉えそこねていると私は思う。 『風立ちぬ』は戦争を全然描いていないわけではない。 短いけれど、主人公が設計した零戦の末路も出てきているのだ。そもそも、このアニメには少年時代の (そして大人になってからも) 主人公がイタリアの有名な飛行機設計家と夢の中で会ったり会話を交わしたりする場面が何度も出てきている。そこを見れば分かるはずだけど、飛行機はしばしば戦争の道具として作られるわけだけど、それに囚われない楽しさが飛行機にはある、そういう飛行機設計マニアの思想は、作中にちゃんと描き出されているのである。
 
むろん、主人公はその後戦闘機の設計に携わるようになるのだが、それは時代と場所の制約に過ぎない。夢の中のイタリアの飛行機設計家も、そうした時代の制約の中で仕事をしたのだし、ヨーロッパに比べて後進国だった日本に住む主人公にとって時代の制約はいっそう厳しいものだったのである。(「大人」 なら、そういう事情はちゃんと読み取ろうね。) そういう条件の中で主人公は自分なりに誠実に仕事をしたのである。藤原の物言いは、「あいつは戦闘機を設計したのだから戦争加担者だ、ケシカラン」 というのと全然変わりない。いや、それでも別にいいのだけれど、だったら前週にはなぜ 「あいつは植民地主義に反対していない、ケシカラン」 と書かなかったのか? 不思議、不思議である。
 
藤原はそのあとでも、主人公と恋人との関係が男性中心主義的だという意味の批判を連ねているのだが、ここには引用はすまい。 あまりにステレオタイプのフェミニズム的批判で、つまらないことおびただしいからだ。
 
こんな評論しか書けない人には、「映画愛」 などと言ってもらいたくはないものである。
 
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