下記の「世に倦む日日」の記事で先の参院選東京選挙区に民主党から立候補した(落選)鈴木寛氏の応援団に湯浅誠氏や内田樹氏、中島岳志氏らが加わっていたことを知りました。

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すずきかんを応援する会
 
鈴木寛の落選 - 応援団に加わった湯浅誠・内田樹・中島岳志(世に倦む日日 2013-07-22)
 
さらに詳しくは右記の「すずきかんを応援する会」の発起人名簿をご参照ください。さらにさまざまないわゆる「リベラル・左派」と一般に称される人たちの名前を見出して驚愕されるはずです(この事象も最近の私たちの国の「右傾化」傾向を象徴するひとつのできごとと見えなくはないでしょう)。

この「世に倦む日日」の筆者は、鈴木寛氏については福島第1原発事故の際の「SPEEDI情報隠し」を同氏の最大の汚点として糾弾していますが、その「世に倦む日日」氏の指摘する汚点もさることながら、鈴木氏は、7年前の教育基本法改悪の際に民主党の「教育基本法検討会」事務局長として自民党の同法改悪法案を凌駕する愛国心条項を含む民主党教育基本法改悪案を取りまとめ、同法改悪を主導した中心人物のひとりです。
 
右派ジャーナリストとして著名な櫻井よしこ氏もその鈴木氏が果たした役割について同氏の次のような発言を引用して評価しています。
 
「占領下で作成された教育基本法は一旦廃止し、真にあるべき日本国の教育を念頭にゼロから作り直すべきだとわれわれは考えたのです」

「愛国心ではなく、日本を愛する心の涵養としたのは、そうすれば、日本人と日本国を作りあげてきた祖先の生き方も伝統も文化文明も、全て包含されるからです。聖徳太子以来の日本、大化の改新で太子の理想を具現化した日本、古事記や日本書紀に記されている日本国の足跡、そこから窺える日本人の価値観全てを愛する心という意味で『日本を愛する心』としました。」(「
理想と現実の狭間の教育基本法」『週刊新潮』2006年5月25日号所収)


また、鈴木氏は、名うての右翼団体「日本会議首都圏地方議員懇談会」で来賓として祝辞を述べたり、同会のシンポジウムにパネリストとして参加するなど同氏と右翼団体とのつながりも浅からぬものがあり、同氏の右翼的傾向は明らかです。
 
湯浅誠氏や内田樹氏、中島岳志氏らは先の参院選でよりによってこのような右翼的人物の応援団に加わっていたというのです。とりわけ湯浅誠氏は反貧困運動の市民活動家として市民の信頼も厚い人です。先の東京都知事選や先の先の都知事選では革新統一候補者として最適な人として市民から熱く推されもしました。このような人がなにゆえに右翼的人物の応援団に加わったりするのでしょう? 私たちは湯浅氏の評価をいま一度再検討してみる必要がありそうです。

湯浅氏は参院選投票日の2日前の7月19日付けに発信した「選挙での相手候補へのネガティブキャンペーンについて」という文章で鈴木寛氏の応援団に加わったことについて次のように述べています。
 
「鈴木寛が、文科行政において、他の議員ではできない業績を残したことは尊敬すべきだし、山本太郎が、原発事故以降、それまでのキャリアをなげうってやっている姿も尊敬すべきだと思う。(略)そして、鈴木寛からは依頼があり、山本太郎からは依頼がなかった。(だから、鈴木寛の応援団に加わった)」
 
なんとも床屋談義的な論理です。このようなジャンケンポンのような論理でこれからのわが国の政治を託する人を決められては適いません。ひとりの有権者として見ても、湯浅氏のこのような姿勢は、まったく誤った政治選択の姿勢だと指摘しておかなければならないでしょう。
 
湯浅氏の上記のような弁明について、冒頭で紹介した「世に倦む日日」の筆者は次のように批判しています。
 
「(湯浅氏の)文書全体の要旨と結論としては、どちらも尊敬すべき有為な候補なのだから、両陣営は足の引っ張り合いを自制すべきというもので、一見すれば、良識的な見解が述べられているように見える。しかし、三木谷浩史と長島昭久が応援団のツートップに並ぶ鈴木寛の選挙運動に積極的に協力したこと、鈴木寛を『有為な人材』だの『尊敬すべき』だのと持ち上げていることは問題だし、何より、この主張の最大の問題は、鈴木寛をSPEEDI隠しの責任者だと認めていないことだ。湯浅誠は、鈴木寛がSPEEDI隠しの責任者として糾弾されることを不当視していて、鈴木寛がそのような非難を受ける事実はないという立場に立っている。」
 
「(湯浅氏は)事故以来、原発や放射能についても朝日や世界や週刊金曜日に何がしかの原稿を書き、東電や当局を批判する口ぶりを示し、不条理な被曝被害を受けた住民の側に寄って立つ姿勢を見せてきた論者の一人のはずなのだ。脱原発の論客としてマスコミで責任ある発言をするということは、当然、国民的関心事として騒然となったSPEEDI隠蔽の問題についても、最低限の知見を持ち、客観的な認識と判断を持っているということを意味する。それが当然だ。そこから考えれば、湯浅誠が鈴木寛の選挙応援に立って獅子奮迅していること、そして何より、SPEEDI隠しの一件について鈴木寛の関与を否定し、鈴木寛への責任追及を一蹴し、鈴木寛の言い訳をそのまま認めて擁護している態度は、あまりに驚愕の裏切り行為で、信じられない不誠実に映ることだろう。」(「学歴と学閥の生理 - 鈴木寛側の山本太郞への凄絶なデマ攻撃」 世に倦む日日 2013-07-23)
 
この「世に倦む日日」の筆者の湯浅氏批判は正論だと私は思います。
 
同様の問題についての湯浅氏批判は先便でもご紹介した「紙屋研究所」の筆者の次のような批判もあります。
 
「湯浅誠が、反貧困という個別問題に深くかかわり、その体験の中で民主党議員を応援してしまう、というのは、その一つ。民主党は、消費税増税に手を貸しただけでなく、湯浅自身が懸命にとりくんできた生活保護についても根本的に改悪させてしまう法案を衆院通過させ、参院でも部分修正で推進させてきた。(略)運動に深くかかわってきたがゆえに、部分にとらわれて、根本的な大義を見失ってしまったのが湯浅のこの間の行動だろう。(「共産党は癌なのか」 紙屋研究所 2013-07-23)
 
これも当たっている指摘だと思います。
 
湯浅誠氏の思想、あるいは彼の「思考」性向の問題性については、先に広原盛明さん(元京都府立大学学長)が昨年末の総選挙時の嘉田新党(日本未来の党)の立ち上げに関してあまりにナイーブ(無知)な発言をする若手政治学者(五野井郁夫・高千穂大学准教授)を批判したとき、その若手政治学者の発言と同類の発言として次のような指摘をしていました。
 
「また民主党菅政権の寵児(内閣府参与)だった湯浅誠氏も、『これまで大事な局面で団結するのが右派、分裂するのが左派だった。段階的に全原発の廃炉を目指す『卒原発』を掲げ大同団結し、大きな受け皿をつくろうと新しいモードを打ち出したことを評価したい。嘉田さんはよく決断したと思う』と負けず劣らず(恥ずかしいような)エールを送った。(略)マスメディアに迎合するだけの若手政治学者やその他の識者は、もっと勉強して主体性を確立してほしい。」(「嘉田新党(日本未来の党)はなぜ失墜したか~「極右第3極」の台頭、「保守補完第3極」の消滅~」 弊ブログ所収 2013.04.16)
 
今回の湯浅誠氏が「すずきかんを応援する会」の発起人のひとりになった一件は、すでに嘉田新党(日本未来の党)の立ち上げ時のときの湯浅氏の発言にその萌芽を見ることができました。さらに言えば、先の東京都知事選のとき、湯浅氏の都知事選への出馬に期待をかける市民のいわゆる「湯浅コール」が高まったことがありましたが、結局、湯浅氏は立候補しませんでした。そのときの湯浅氏の不出馬表明(「都知事選についてのコメント」 2012年11月4日付)には次のような一節がありました。
 
「1000万人を超える有権者を抱える巨大都市・東京都の知事は、広範な人々の利害を調整する官僚機構と良好な関係を保ち、企業から生活者を含めた多様な人々に共感を得る必要があります。」
 
「危ないのは(「左派」系の政党を支持している人たちは)『石原新党、橋下維新に違和感を抱いている人は少なくないはずだ』という点に重きを置きすぎて、『自分たちに違和感を抱いている人も少なくない』という点を軽視したり忘れてしまうことです。そうだとすると、目指すべき戦略は、①社会運動や市民活動に対する不安や不信感をいかに払拭し、②相手候補に対する違和感にいかに明確な言葉を提供できるか、ということになります。②は社会運動や市民活動が比較的ふだんからやっていることで、相対的な得意分野と言えるかもしれません。①は比較的ふだんから忘れられがちなことで、相対的な不得意分野です。(略)そして、①が不得手で②が得意なのだとすれば、当面力を入れるべきは、当然不得意分野である必要があります。そのためには、自分たちにないものを補っていく布陣が必要です。実績不足については実績のある人を、不安に対しては安心感を与えられる人を、不信感に対しては自分たちと対極にいるような人でチームを構成し、応援団に配置できることが望ましい。」
 
上記の湯浅氏の「不出馬表明」は一見、全方位的で視野の広い教養人のゆき届いたフォーマット・スケッチのように見えなくはありません(実際、そのような評価が多数でした)。しかし、社会的強者としての「官僚機構」や「企業」と社会的弱者としての「生活者」を同一次元に並べて論じられるものでしょうか? 湯浅氏の論ではなにゆえに「官僚機構」や「企業」は社会的強者として呼ばれ、なにゆえに「生活者」は社会的弱者と呼ばれるのかという社会学の要としての考察、視点はこれもなにゆえにか問題の外のこととされています。こうした思考(方法)をニュートラルというのだとすれば、そのニュートラルとはなんでしょう? 「根底的」なものへの批判精神の欠如というほかないように思います。
 
また、湯浅氏の論は、「社会運動や市民活動に対する不安や不信感」を持つ人たちの思考、志向のありかたをアプリオリに「善」とみなしているところがあります。しかし、その「善」なる市民の「社会運動や市民活動に対する不安や不信感」はしばしば「誤解」や「偏見」に基づくものであったりすることも少なくありません。これは私たち市民活動家の多くが共通して経験しているところではないでしょうか。そうであれば、「社会運動や市民活動に対する不安や不信感を払拭」するためには、その「善」なる市民の「誤解」や「偏見」を解くという課題がまずはじめの課題とならなければならないはずのものです。
 
それを湯浅氏は、「自分たちにないものを補っていく布陣」の問題を第一義的な課題とし、「実績不足については実績のある人を、不安に対しては安心感を与えられる人を、不信感に対しては自分たちと対極にいるような人でチームを構成し、応援団に配置」する必要があると説くのです。「実績のある人」「安心感を与えられる人」「不信感に対しては自分たちと対極にいるような人」とはなんとも抽象的な表現です。そこには「実績のある人」「安心感を与えられる人」であればその思想性や政策、信条などは問われないのか、などの重要な問いがスッポリと抜け落ちています。そうした湯浅氏の論に見られる論理的欠陥と思われる彼のこれまでの「思考」性向が「すずきかんを応援する会」の発起人に名前を連ねるという今回の一件にも結びついているのだと考えれば、同一件も湯浅氏の突如としての心変わりを意味するものではないことが得心されるのではないでしょうか。
 
附記:
なお、「すずきかんを応援する会」には内田樹氏や中島岳志氏らも加わっていることは上述しましたが、そのほかにも一般に「リベラル」知識人と見られている(私はそうは思っていませんが)東浩紀氏や宮台真司氏、船橋洋一氏、寺脇研氏などなどの面々も名前を連ねています。
 
そのうち東浩紀氏については上でも少し述べましたが「紙屋研究所」ブログの下記のような批判があります。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20130723/1374531295
 
また、内田樹氏についても下記のような批判があります。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20130723/1374536774

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