私が先に発信した「『< 60年代・70年代を検証する>第22回 水戸喜世子氏(元救援連絡センター事務局長)に聞く』(図書新聞 2013年04月13日号)を読む。またはご紹介」という記事には思いがけずさまざまな人から反響がありました(もちろん、水戸喜世子さんのインタビュー記事の内容の深さと豊かさによるものですが)。
 
その思いがけない反響のひとつに東京大空襲訴訟弁護団長の中山武敏さんのメーリングリストを通じての2通の手紙がありました。
 
そのはじめの手紙に中山さんは水戸巌さんとご自身とのかかわりが「狭山事件」であったことにふれて次のように綴っていました。
 
「水戸巌さんとは生前何度もお会いしています。核物理学者の武谷三男さん、野間宏さん、日高六郎さん等と共に狭山事件の支援運動にも熱心にかかわられていました。お連れ合いの喜世子さんともお会いしたこともあります。狭山事件は発生から50年。私が弁護団事務局長を経て主任弁護人になる過程で所属をこえた弁護団の結成、支援運動の広がりに力をいれました。鎌田慧さんが事務局長をされている狭山市民の会も北は北海道から南は沖縄まで全国130ケ所近く結成されています。私は東京大空襲訴訟弁護団長、宇都宮前日弁連会長都知事選挙母体であった「人にやさしい東京をつくる会」の代表もしていますが不正義と闘う運動は根底において全て繋がっているとおもいます。水戸巌さんの想いを引き継いでお互いに大きな連帯の運動をつくりましょう。」

そして、2通目の手紙にはご自身の生い立ちにもふれて「石川さんからの『貧乏だったために教育を受けられなかったことは恨まないが教育を受けられなかった者に対する国家の仕打ちの冷酷さが許せない』との手紙が私の弁護士としての原点です」と綴ったうえで「50年後も続く『狭山事件』無罪獲得の闘い」(中山武敏さん訳)と題された2013年4月3日付けのThe Japan Timesの記事が添付されていました。
 
以下は2通目の手紙の中山さんの前書きと2013年4月3日付けのジャパンタイムズの記事の中山武敏さん訳です。
 
「今年は狭山事件発生(1963・5・1)、石川一雄さん別件逮捕(5・23)本件逮捕(6・17)から50年になります。全国各地で集会が開催され、5月1日は狭山現地集会、5月13日は鎌田慧さんが事務局長をされている狭山市民の会主催の集会が午後6時から私学会館で開催され落合恵子さんの講演が予定されています。5・23日には日比谷野音で大規模な集会も開催されます。私にとっても節目の年で、福岡・久留米の夜間の定時制高校を働きながら卒業し、弁護士を志して3月31日夜行急行で上京、24時間近くかかって東京に着き、大学の入学金を貯めるために、翌2日から日経新聞中野販売店に住み込み新聞配達を始めました。」
 
「新聞配達している時に狭山事件が発生しました。中央大学法学部の夜間に入学、卒業の年に司法試験合格、弁護士開業し、狭山弁護団加入。石川さんからの『貧乏だったために教育を受けられなかったことは恨まないが教育を受けられなかった者に対する国家の仕打ちの冷酷さが許せない』との手紙が私の弁護士としての原点です。」

以下、中山武敏さん訳のジャパンタイムズ記事「50年後も続く『狭山事件』無罪獲得の闘い」。
  
50年後も続く「狭山事件」無罪獲得の闘い
Lawyer, freed convict fight outcast bias, injustice
Both seek to overturn 50-year-old conviction, cite 'buraku' prejudice
              by Keiji Hirano Kyodo The Japan Times  Apr 3, 2013
(ジャパンタイムズ 2013年4月3日)

狭山裁判 
東京地裁前で無実を訴える
石川和夫さんとその妻幸子さん
(2013年3月21日 共同)

狭山裁判2 
中山武敏「狭山事件」弁護人
(2013年3月25日 共同)


不正にはとりわけ敏感な日本社会の周縁の家庭で、人権活動家の父のもとで育った中山武敏にとって、社会改革のために働く弁護士となることは、天命のようなものだった。

「父は憲法の条文を自宅の壁に張り出し、特に法の下の平等を定めた14条を覚えるようにと言っていました」と、福岡県の被差別部落の貧困家庭で生まれた中山(69)は語る。

彼の父は靴修理職人として働く傍ら人権擁護活動に取り組み、一方、母は40年近くにわたり廃品回収業をして家庭を支えた。

「私たちには、廃品回収や建設業など、限られた仕事しかありませんでしたし、私自身も、様々な差別に直面しました」と中山は言う。

「でも、父は私に、そうした状況を乗り越えて欲しかったのです」。

授業料を払うため、高校、大学と夜間部で学び、中山は1971年、東京で弁護士となった。そして間もなく、世間を震撼させた殺人事件の被告人と出会うことになる。彼もまた、被差別部落の出身だった。

その被告、石川一雄は、1963年5月1日に埼玉県狭山市で、当時16歳の女子高生を殺害したとして死刑判決を受け、無罪を求めて東京高裁に控訴中だった。

その日、20万円の身代金を要求する脅迫状が被害者宅に届き、その3日後に彼女の遺体が見つかった。当時、建設補助作業員をしていた石川が間もなく逮捕されたのだった。

判決内容には多くの疑問点があり、中山は石川の弁護団に加わり、その後、主任弁護人となった。「狭山事件」として知られる事件の発生から間もなく50年となるが、2人の、正義を実現するための闘いは今も続いている。

石川は無罪を主張したが、高裁は無期懲役に減刑、判決は1977年、最高裁で確定した。1994年12月、現在74歳になる石川は保釈され、2006年に第3次再審請求を東京高裁に起こした。

中山の父も福岡から東京に転居し、1986年に73歳で死亡するまで石川の無実を訴える活動に従事した。「これは、私だけでなく、私の亡くなった父の闘いでもあるのです」と中山は言う。

被差別部落は犯罪の温床との偏見から、「警察は明らかにこの地区の住人に的を絞って」おり、石川に対する不利な証言も「こうした偏見に影響されたものだった」と中山は言う。「裁判所も、このような不当な捜査を検証することなく、石川さんを有罪にした」。

被差別部落の人々に対する差別は日本の封建時代から続き、彼らは現在も結婚や就職など、様々な場面で差別に直面している。

再審請求後、検察側は弁護団の要求により、約100点の証拠を新たに開示した。その中には、石川が逮捕直後に手書きした文書や取り調べの際の録音テープが含まれている。

こうした証拠に基づき、弁護団は、石川の筆跡は被害者宅に届いた脅迫状の筆跡とは一致しないとの専門家による鑑定結果を裁判所に提出した。

そもそも、家計を支えるために働きに出て、小学校卒業程度の学力もなかった石川に、脅迫状のような手紙が書けたのか、との疑問は、以前から指摘されていたことだった。

弁護団はまた、石川の一時的な自白は任意になされたものではなく信用できない、ということを証明するため、録音テープによる心理鑑定の実施も検討している。

石川自身は、もし罪を認めなければ、一家の稼ぎ頭だった兄を代わりに逮捕する、認めれば10年で出所できると捜査官に言われたため、虚偽の自白をしたのだとしている。

当時、些細な犯罪行為に加担したこともあり、10年間服役する以外選択肢はないと石川は考えていた。「当時は暴れん坊だったからね」。再審開始に対する支援を得るため忙しく活動する今も、石川は「見えない手錠」に縛られていると感じている。

保釈から18年以上経った今も、月2回の保護司との面接を義務付けられ、法務省には旅行日程などを提出しなければならず、選挙権もないままだ。

「こうした制約は、無罪判決を得ない限り一生続く」と彼は言う。

しかし、石川は過去50年が無駄だったとは考えていない。「私は刑務所で読み書きを学んだ。有罪判決を受けていなかったら、一生、読み書きができないままだったかも知れない」。

こうした考えは、妻早智子も共有している。早智子も徳島県の被差別部落の出身で、彼の保釈から2年目の日に結婚した。

「私は自分の出自を隠してきたが、一雄さんの『被害者が泣き寝入りしている限り差別はなくならない』との言葉で変わりました」と早智子(66)は語る。「彼の生き方は私に生きる力を与えてくれたし、他の多くの人々にも影響を与えてきたと思います。彼の50年間の闘いは、決して無駄ではなかった」。

中山も、石川から学んだことがあるという。

「石川さんはどこにでもいる不良だったし、私自身も彼のようになっていたかも知れません。しかし、彼は刑務所で読み書きを学び、幾多の困難にも関わらず、自分を律することも学んできました」と中山。

石川はかつて、獄中から中山に送った手紙に「教育を受けられなかったことを恨んではいないが、権力が自分を過酷に扱ったことは許せない」と書いたことがある。

父親や、狭山事件への関わりを通して学んだ人権感覚により、中山は現在、第2次大戦中の東京大空襲の被害者による国家に対する損害賠償訴訟の代理人も務めている。

「私たちは、軍人・軍属だけでなく、戦災孤児も含めた一般被害者にも国は補償すべきだと訴えてきました。彼らはこれまで取り残されてきたのですから」と中山は言う。国の戦後補償政策は、法の下の平等を定めた憲法14条に反する疑いがあるとの主張だ。

14条は「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定めている。

空襲被害者たちはいまだに後遺症やトラウマに苦しんでおり、平均年齢が80歳になる77人の原告たちの勝訴判決をできるだけ早く得ることは中山にとって喫緊の課題だ。

一方、石川は、無罪判決を得て時間ができたらかなえたい夢があるという。「私は、小学校、中学校の卒業証書を持っていない。できたら夜間中学に通いたい」。

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