先に私は「辻元清美氏の「小沢一郎」氏評と「未来の党」評(『世界』別冊3月号)についての感想 ――権力に対抗しうる言葉とはなにか」(弊ブログ 2013.02.19 )という記事を書いて「辻元氏の発言は少なくとも権力に対抗する精神から発せられた説得力のようには私には見え」ないと辻元氏の言説の背景にある彼女の政治的エスタブリッシュメント志向の「精神」を批判したのですが、その辻元氏の言説が掲載されていたのが標題にもあるとおり月刊誌『世界』別冊(臨時増刊号)の2013年3月号でした。
 
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『世界』別冊(2013年3月号)

その別冊の表紙には上記の写真に見るような言葉が巻頭言として記されています。すなわち、「政治を立て直す 政権交代とは何だったのか、新しい政治は拓けるか」。そして、その巻頭言をクリックすると次のような同号のガイダンスが現れます。

 
「2009年秋の総選挙で民主党が圧勝し政権交代が実現した直後、私たちは『世界』臨時増刊「大転換──新政権で何が変わるか、何を変えるか」を緊急出版した。あれから3年3カ月、振り子はまたしても大きく振れた。2012年師走の総選挙で自民党が「相対的大勝利」を収め、ふたたび政権についたのは、改憲をライフワークと名言する安倍晋三氏である。/いま必要なのは、まず民主党政権3年間の歴史的意味を総括し、引き継ぐべき成果と課題は何かを改めて考えることである。その延長線上に、新政権が背負うべき課題と方向性を明らかにすることができるだろう。そして、脱原発デモなどにみられる市民のうねりを政党政治にどう接続していくか、つまり「国会」と「街頭」という民主政治の場でどのような動きを起こしていくかという展望が求められる。/与野党のキーパーソンへのインタビューや、市民活動家たちの声なども交え、政治をどう再構築するかを検討する。」(強調は引用者)

この『世界』別冊臨時増刊号の性格について、上記の記事の中でご紹介した「kojitakenの日記」の主宰者の古寺多見さんは次のように指摘していました。
 
「巻頭に山口二郎の論文が置かれていることに別冊の性格が象徴されていて、要するに『世界』編集部による、政権交代を後押ししてきた立場からの民主党政権3年3か月と先の衆院選の総括だ。」(「辻元清美曰く『小沢一郎に政策の理念があったかどうか疑問』」(kojitakenの日記 2013-02-15)

古寺多見氏は上記で同号の性格を「『世界』編集部による、政権交代を後押ししてきた立場からの民主党政権3年3か月と先の衆院選の総括」と特徴づけていますが、さらに蛇足としてつけ加えれば、「巻頭に山口二郎の論文が置かれていることに別冊の性格が象徴されて」いるとは、山口二郎氏(北海道大学教授)は自ら「民主党政権の生みの親」とかつて自称していた「政治学」のプロフェッサーですから同号の性格は現時点でのあらたな「民主党応援歌」である、という批判の意味合いがこめられているでしょう。上記の編集部による同号のガイダンスにも「民主党政権3年間の歴史的意味を総括し、引き継ぐべき成果と課題は何かを改めて考える」とありますからその『世界』のあらたな「民主党応援歌」の性格は明らかというべきでしょう。
 
私はこれも前々の記事でも「日本の右傾化」の侵食の波は「革新」の内部にも押し寄せていることに警鐘を鳴らしておきましたが(*)そのひとつの実例を今回の『世界』臨時増刊号の特集に見ることができます。「民主党応援歌」をいままた歌うことはこれまでの自民党政治をさらに悪質化させた政治勢力の「応援歌」を歌うことにほかならず、すなわち「政治の右傾化」を擁護することにしかならないからです。

1月1日付1月22日付記事でも指摘している新NGO組織NDIの立ち上げも「日本の右傾化」の侵食の波が「革新」の内部にも押し寄せていることへのひとつの例証としてとりあげたものでした。近年、『世界』のほかにも『週刊金曜日』『NPJ』『マガジン9などのいわゆる「革新」メディアもこの侵食の波にさらされ続けています。また、共産党もその被浸食の例外ではありません。こちらの記事(最後の赤字部分参照)がそのひとつの例証になりえているでしょう。それらのことについても私はこれまでたびたび指摘してきました。弊ブログの検索欄に関連語句を記入してリサーチできます。
 
その『世界』別冊3月号の「右傾化」のさまを金光翔さん(元『世界』編集部員。現岩波書店社員。現在、同社の解雇通告の無効を争って裁判を起こしている)が私とは別の角度から指摘していますのでご紹介しておきます(インデント改行、強調は引用者)。
 
西谷修・五野井郁夫「デモは政治を開けるか」 (金光翔 私にも話させて 2013-02-21)
 
『世界』臨時増刊号を拾い読みしていたら、五野井郁夫という人の以下の発言に遭遇して驚いた。
 
「近年のデモの参加者は無理をせず、行ける時に参加しています。また、官邸前の弁護団がよい例ですが、「接見弁護があるから今日は行けません」とか「30分だけ行けます」とかいうのもあります。ここが気にくわないから出て行く、だけれども戻って来られるという、やわらかな共同体。
 
実際、いいことか悪いことかすぐに判断はできませんが、鬱憤晴らしで極右のデモにも行くけど、反貧困のデモにもコアメンバーとして参加するという人が出てきています。どちらも現代社会の犠牲者ではあるわけで、アイデンティティのクラスターが一つだけではなくなっていることは確かです。希望的観測ですが、そうなると世界の見方も複数性を持ってくるから変わるのかなと思います。」(西谷修・五野井郁夫「デモは政治を開けるか」『世界』臨時増刊、第841号、2013年2月)
 
この発言は、この人物のいろいろな点を曝け出している。
 
日本の極右が特定の人々や歴史的事実を排撃していることへの無関心・容認
 
「現代の犠牲者」だと規定することで、その行為の責任性を問わない点に見られる、同情したふりをしながらの若者への蔑視感情

・「反貧困」と「極右」を対立的にしか捉えられない無知。ファシズムや社会排外主義の問題性に関する認識の欠落

極右デモへの参加も「世界の見方も複数性を持ってくる」可能性の一つとして肯定的に捉える破廉恥さ。(運動の幅を広げるためには右翼の参加も許容しなければ、というよくある弁明ではなく(それ自体も問題であるが)、極右デモへの参加がポジティブなものとして捉えられているところに、この五野井の<新しさ>がある)

・主張それ自体としては極右デモへの参加を肯定しているにもかかわらず、「いいことか悪いことかすぐに判断はできませんが」「希望的観測ですが」などと自己弁明する小心さとセコさ(前回記事で書いた、川崎市長のようである)

私が指摘した<佐藤優現象>とは、「佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ」ものであるが(「<佐藤優現象>批判」)、五野井の発言は『世界』のそうした傾向が何ら変わっていないどころか、排外主義への加担を肯定する発言が掲載されているという点で、より進化していることを示していると言えよう。この臨時増刊号で、久しぶりに佐藤が書き手として『世界』に登場していることも示唆的である。

金光翔さんの『世界』別冊の「読み」は私の認識とも共通します。

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