3日遅れのニュースのご紹介ということになってしまいましたが、日本維新の会とみんなの党が「憲法96条改正」で合意、というニュースです。

憲法96条改正で協力 日本維新とみんな(産経新聞 2013.2.14)
日本維新の会とみんなの党は14日午前、国会内で幹事長・国対委員長会談を開き、憲法改正の発議要件を定めた憲法96条の改正に協力して取り組む方針を確認した。維新の松野頼久国会議員団幹事長は記者団に「維新とみんなの党だけでは(賛同者が)足りないので他党にも呼びかけをしていく」と述べた。/安倍晋三首相は先月末の国会答弁で96条改正を目指す考えを表明している。

維新とみんな、憲法96条改正原案取りまとめへ(読売新聞 2013年2月15日)
日本維新の会の松野頼久国会議員団幹事長とみんなの党の江田幹事長は14日、国会内で会談し、憲法改正の発議要件を緩和するための憲法96条改正の原案を今国会中に両党で取りまとめることで一致した。/
維新の会とみんなの党は先の衆院選公約で、それぞれ96条改正を打ち出している。/憲法96条は、憲法改正の発議要件について、衆参両院の各議員の「3分の2以上」の賛成が必要と定めている。国会法は憲法改正原案の国会提出について、衆議院では100人以上、参議院では50人以上の賛成が必要と定めており、両党だけでは足りないことから、両党は他党の協力を求める方針だ。

維新 みんなに憲法改正案共同提出で申し入れ(NHK 2月14日 17時43分)
日本維新の会の松野国会議員団幹事長は、みんなの党の江田幹事長に対し、国会が憲法改正を発議する要件を定めた憲法96条について、要件を緩和する内容の改正案を今の国会に共同で提出したいと申し入れ、今後、調整することになりました。/
日本維新の会は、国会が憲法改正を発議する要件を定めた憲法96条について、発議には衆参両院それぞれで、すべての議員の「3分の2以上の賛成」が必要としているのを、「過半数の賛成」に緩和する内容の改正案を今の国会に提出し、憲法改正を巡る国会審議を本格化させたいとしています。/これについて、維新の会の松野国会議員団幹事長は、14日、みんなの党の江田幹事長と国会内で会談し、96条の改正案を共同で提出したいと申し入れ、今後、調整することになりました。/憲法の改正案を国会に提出するためには、衆議院では100人以上、参議院では50人以上の賛同者が必要で、維新の会は、みんなの党に加えて自民党や民主党にも協力を呼びかけたいとしています。

上記の記事(読売新聞)にもあるように「維新の会とみんなの党は先の衆院選公約で、それぞれ96条改正を打ち出して」いたわけですからこの両党の「憲法96条改正合意」は当然といえば当然で驚くに値しませんが、それにしても先の衆院選でいったい誰がこの日本維新の会とみんなの党を誉めそやし、かつ支持したのか、とこの国のとめどもない「一億総保守化」とでもいうべき風潮とその風潮に媚を売る体の一部の「革新」主義者なるもの、一部の「リベラリスト」なるものを弾劾したくもなります。

一、二例をあげておきます。

天木直人氏:「渡辺善美と江田憲司に告ぐ。事務次官を廃止してみろ」(天木直人のブログ 2010年07月14日)

上記で天木氏は「私は渡辺善美の地元である栃木県西那須野の住民である。/今度の参院選挙では比例区も選挙区もともに『みんなの党』に投票した。/それは「みんなの党」が政治家、官僚こそ真っ先に身を切れと掲げたからだ。/今度の参院選では大躍進した。支持者の一人としてはご同慶の至りだ」と公言していました。

●天木直人氏:「渡辺喜美『みんなの党』よ、橋下徹『維新の会』とともに『小沢新党』の下に結集せよ」(天木直人のブログ 2012年08月10日)

同記事の内容は標題のとおり。説明しなくとも天木直人氏のどうしようもない政治認識の愚かしさ、イカレポンチ(「ぽんち」(「ぼんち」の音便化)は、大阪弁で若旦那の意。「しっかりした考えのない軽薄な男」のことをこう言います)具合がわかるというものでしょう。この凡庸なる「天才」の天木氏は最近ではあの極右の稲田朋美氏(自民党)にも熱をあげているようです。「自民党稲田朋美議員の代表質問に完敗した菅首相」(同上 2010年10月06日)参照。彼のイカレポンチ具合はとどまるところをしりません。いったい誰が彼を「革新」の人士などと持ち上げるのでしょう? その見る目のなさにはうんざりです。うんざりするだけならまだいいのですが、政治の革新にとって害悪以外のなにものでもありえません。

もう一例。

飯田哲也氏(現「日本未来の党」代表代行)と古賀茂明氏(元経産省官僚)が日本維新の会共同代表の橋下徹氏(大阪市長)が事実上創設した大阪府・市統合本部の特別顧問であり、橋下氏の強力ブレーンであったことは天下周知の事実です(古賀氏はいまはみんなの党に秋波を送っているようです)。その日本維新の会とみんなの党が「憲法96条改正」で合意した、というのが今回のニュースです。飯田氏と古賀氏にもその今回の両党の「96条改正合意」に大きな責任があることはいうまでもないでしょう。その飯田氏と古賀氏をこれも「革新」の人士などと持ち上げてきたのは誰か? 彼らを持ち上げてきた者の責任も問われなければならないのは明らかというべきでしょう。

さらにもう一例。

みどりの風代表代行の行田邦子参院議員が「みんなの党で出馬検討」というニュースも流れています。

みどりの行田参院議員、みんなの党で出馬検討(産経新聞 2013.2.15)
参院選:みんなの党 みどりの風・行田氏に立候補求める(毎日新聞 2013年02月15日)
みんな・渡辺代表、みどり・行田氏に立候補要請(日本経済新聞 2013/2/15)

みんなの党の立候補要請にやすやすと乗るような議員を代表代行に担いでいるみどりの風という政党は革新政党と評価するにふさわしい政党といえるのか? また、その政党の代表の谷岡郁子という参議院議員をリベラリストのように持ち上げる風潮は正しい風潮といえるのか?

メディアやさまざまな論者によって「日本の右傾化」が指摘されてすでに久しいのですが(ことに1990年代以後)、いわゆる「革新」の側もその例外ではありえず、「革新」の内部にもその侵食の波は押し寄せている、ということはいえないか?

自省の眼で考えていきたいことです。

追記:
きょう17日は私の地元では大分市議選の告示日です。私の30年来の友人(後輩)がみんなの党の推薦を受けて無所属で出馬しました。3か月ほど前、私にどこの政党と連携するのがよいかという相談がありました。「生活が第一」か「みんなの党」か、「維新の会」か、と。私がことごとく批判したところ(お前は「福祉の重要性」を看板に掲げているがみんなの党も維新の会も生活が第一もみんな新自由主義の政党だ。新自由主義の特徴は「福祉」を「自己責任」の名において切り捨てるところにある、と。)その後私には連絡はなくなりました。残念なことです。しかし、当落の有無はともあれ30年来の酒飲み友達ですから今後も一緒に酒を飲むことはあるでしょう。思想上の問題はともかくとして。そして、彼は思想は保守ですが、善良なるヒューマニズムの精神の持ち主ですから保守の中では相対的によい仕事をしてくれるものとは思っています。

参考資料:
「憲法改正の限界」に関する衆議院憲法調査会事務局
最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会の
硬性憲法としての改正手続に関する基礎的資料
(衆憲資第24号、平成15年4月3日 p26-29)

Ⅲ 憲法改正の限界
憲法改正の手続に従えばいかなる改正も可能であるか否かについては「無限界説」と「限界説」の二説が存在しており、この問題は、憲法、人権、国民主権等の本質をどのように考えるかという、憲法の基礎理論と密接に関連する。通説は「限界説」を採るが、その論拠は、以下のとおりである。

1 権力の段階的構造―制憲権(憲法制定権力)と改正権(制度化された憲法制定権力)―
 民主主義に基づく憲法は、国民の「憲法制定権力(制憲権)」によって制定される法である。この「制憲権」は、憲法の外にあって憲法を作る力であるから、実定法上の権力ではない。そこで、近代憲法では、法治主義や合理主義の思想の影響も受けて、「制憲権」を憲法典の中に取り込み、それを「国民主権の原則」として宣言するのが、だいたいの例となっている。また、その思想は、憲法改正を決定する最終の権限を国民に与える憲法改正手続規定にも、具体化されている(日本国憲法96 条が定める国民投票制はその典型的な例である。)。憲法改正権が「制度化された憲法制定権力」とも呼ばれるのは、そのためである。

 このように、「改正権」の生みの親は「制憲権」であるから、改正権が自己の存立基盤とも言うべき「制憲権」の所在(国民主権)を変更することは、いわば自殺行為であって理論的には許されない(強調は引用者。以下同じ)、と言わなければならない。(『憲法 第三版』芦部信喜 366 頁)

2 人権の根本規範性―自然権思想の実定化―
 近代憲法は、本来、「人間は生れながらにして自由であり、平等である」という自然権の思想を、国民に「憲法を作る力(制憲権)」が存するという考え方に基づいて、成文化した法である。

 この人権(自由の原理)と1にふれた国民主権(民主の原理)とが、ともに「個人の尊厳」の原理に支えられ不可分に結び合って共存の関係にあるのが、近代憲法の本質であり理念である。したがって、憲法改正権は、このような憲法の中の「根本規範」とも言うべき人権宣言の基本原則を改変することは、許されない。もっとも、基本原則が維持されるかぎり、個々の人権規定に補正を施すなど改正を加えることは、当然に認められる。(『憲法 第三版』芦部信喜 366 頁)

3 改正の限界の内容
 日本国憲法には、明示的に改正の限界について規定する条文は存在しない。しかしながら、通常、以下の諸点について改正の限界が指摘されている。

ア 前文の趣旨
 限界説を採れば、日本国憲法前文が人権と国民主権を「人類普遍の原理」であるとし、「これに反する一切の憲法……を排除する」と宣言しているのは、ただ政治的希望を表明したものではなく、改正権に法的な限界があることを確認したものと解されることになる。つまり、改正禁止条項は、その内容が改正権の理論上の限界(憲法の根本規範と言われる人権尊重と国民主権の原理)と一致する場合には、改正の限界を明示することによって、改正権に対して注意をうながすという確認的意味をもつのである。ドイツ連邦共和国基本法が、人権保障と国民主権のような「基本原則に影響を及ぼす」改正を禁止し(79 条3 項)、フランス第五共和制憲法が「共和政体は改正の対象とすることはできない」と定めているのも(89 条5 項)、その趣旨である。(『憲法学Ⅰ 憲法総論』芦部信喜 77頁)

【改正の限界についての明示的な条項を有する諸外国の憲法の例】
   ドイツ連邦共和国基本法
第79条(基本法の変更)
(1)及び(2) 略
(3) この基本法の変更によって連邦の諸ラントへの編成、立法に際しての諸ラントの原則的協力、または、第1条〔人間の尊厳〕および第20条〔連邦国家、権力分立、社会的法治国家、抵抗権〕にうたわれている基本原則に触れることは、許されない。
   フランス第五共和国憲法
第89条(憲法改正)
①~② 略
⑤ 共和政体は、これを改正の対象とすることはできない。
   イタリア共和国憲法
第139条(憲法改正の限界)
共和政体は憲法改正の対象となることができない。

イ 平和主義
 国内の民主主義(人権と国民主権)と国際平和の原理は、不可分に結び合って近代公法の進化を支配してきたと解されるので、平和主義の原理もまた改正権の範囲外にあると考えなくてはならない。ただし、平和主義と軍隊の存在とは必ずしも矛盾するわけではないので、憲法9 条2 項の戦力放棄の条項は理論的には改正可能とみるべきである。(『憲法学Ⅰ 憲法総論』芦部信喜 78 頁)

【平和主義条項に関する憲法制定時の考え方】
平和主義条項についての改正の可否に関しては、第90 回帝国議会・衆議院帝国憲法改正案委員小委員会における金森德次郎国務大臣の以下の発言が知られている。

○金森国務大臣 是ハ非常ニ「デリケート」ナ問題デアリマシテ、サウ軽々シク言ヘナイコトデアリマスケレドモ、第一項ハ「永久にこれを抛棄する」ト云フ言葉ヲ用ヒマシテ可ナリ強ク出テ居リマス、併シ第二項ノ方ハ永久ト云フ言葉ヲ使ヒマセヌデ、是ハ私自身ノ肚勘定ダケカモ知レマセヌガ、将来国際連合等トノ関係ニ於キマシテ、第二項ノ戦力保持ナドト云フコトニ付キマシテハ色々考フベキ点ガ残ツテ居ルノデハナイカ、斯ウ云フ気ガ致シマシテ、ソコデ建前ヲ第一項ト第二項ニシテ、非常ニ永久性ノハツキリシテ居ル所ヲ第一項ニ持ツテ行ツタ、斯ウ云フ考ヘ方ニナツテ居リマス…
(昭和 21 年7 月30 日)

ウ 憲法改正手続
 96 条の定める憲法改正国民投票制は、国民の制憲権の思想を端的に具体化したものであるから、これを廃止すること(そして、それに代わって総議員の3 分の2 の多数決だけで改正が成立する制度に改めること)は、いわば改正権による制憲権の簒奪ないし改正権の自己否定(自殺行為)であり、国民主権の原理を根底からゆるがす意味をもち、改正権の対象とすることは理論上できない、と解される。もっとも、国民代表制の代わりに憲法改正を行うための特別の憲法会議(convention)の制度に改めることは、理論上は可能と考えてよいであろう。ただ、問題は、国民意思と代表者意思との一致を確保することが、事実上きわめて困難であることにある。(『憲法学Ⅰ憲法総論』芦部信喜 78 頁)

【憲法調査会における発言から】
 この問題については、第150 回国会・平成12 年11 月9 日に衆議院憲法調査会に参考人として出席した小林武南山大学教授からも、以下の発言があった。

○小林参考人 …憲法は、主権者である国民の作品でございます。九十六条が、憲法改正の発議権を内閣には付与せず、国民代表議会に限定いたしまして、その採択は国民みずからが行うことを定めているのも、単なる手続ではなくて、国民が憲法をつくるというその原理を表明したものにほかなりません。…(憲法改正について最近説かれていることで、気がかりに思うことの一つは、)九十六条の定める憲法改正手続の軟性化を説く議論であります。その一例は、国民投票を削除し、国会の発案要件も三分の二を単純多数決にすべしとする(意見であるが)、これはそれほど単純なものではありません。とりわけ国民投票を除くことは、国民主権の原則と抵触いたしますから、憲法改正の限界に当たるものとして、改正対象になり得ないとするのが憲法学の通説であります。

エ 全部改正
 憲法の「改正」は元の憲法典の存続を前提としているので、憲法典自体に「全部改正」を認める規定が存在しないかぎり、新しい憲法典にとって代える改正を行うことはできない、という説もある。しかし、「憲法は個別的規定の総体にすぎぬもので、全部はその部分と異なる性質のものではなく、全部を変更する権力は部分を変更する権力と当然に異なる権力であるとはいえない」と考えられるので、全部改正を憲法改正の限界を破るものとして、日本国憲法の下で不可能と説くのは、妥当ではなかろう。96 条の「この憲法と一体をなすものとして」とは、日本国憲法の基本原理を継承する憲法として、という、実質的な意味に解すべきだと考えられるからである。全部改正を禁止していると解しても、2 回以上に分けて改正を行えば、全面改正も可能となる。(『憲法学Ⅰ 憲法総論』芦部信喜 78 頁)
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