前田さん

森美術館問題を考える討論集会」はいよいよ本日の開催ですね。実りある議論の応酬を期待しています。

はじめにこの問題の当事者の会田誠さんがツイッターで前田さんにエール?を送っていますので、そのエールをまずご紹介しておきます(すでにご存じかもしれませんが)。

「前田朗さんは僕の展覧会見てくれてないんだろうなあ。なんならタダ券あげるけど。一緒に会場回るのも吝かじゃないよ。18禁部屋、あんなモンほんの一部だから、サラリとでいいよ。戦争画リターンズとか、現代社会扱った作品のところでじっくり話し合おうか。もしかしたら意気投合…ないだろうけど。」

また、以下は、先ほどジェンダー関係のメーリングリストに発信した私の意見です(作家の彦坂諦さんへの反論的返信として書いたものです。)。ご参考までに本日の集会の問題提起者のおひとりとしての前田さん宛としても掲げておきます。
*この件について彦坂諦さんから返信がありました。追記をご参照ください。また、前田朗さんからも「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」の報告があります。追記3として掲げておきます。

彦坂さん

前便のあなたのメールの主旨が何度も読んでみましたが私にはよく掴みきれませんので質問させていただきます。

あなたは前便メールでポール・ニザンの「文学とは読者を『不快にする』ものだ」という言葉を引用した上で次のように書いています。

「だれを「不快にさせる」のか?/きのうそうであったようなおだやかでなにごともおこらない生活が/きょうもあすもつづいていくのだとつゆうたがわず、/その安穏にくびまでどっぷりつかっている/そういうひとびとを、でした」、と。

この「安穏にくびまでどっぷりつかっている/そういうひとびと」とは「『会田某展』という言い方はいかがなものでしょう?」という問題提起をされたⅠ氏ほかの人たちのことを指してそう言っているのでしょうか?(Ⅰ氏のメールへの返信としての「だれを『不快にさせる』のか?」発言ですからそのように受けとめるほかないのですが)

だとすれば、彦坂さんのご認識には私は同意できません。

会田誠」という氏名がはっきりわかっている人のことをあえて「会田某」と言う。そこに会田氏に対する批判の意思が働いていることは明らかです。もちろん批判は自由です。しかし、その批判は、一般に理路のあるものでなければ他者(ひと)の共感は得られません。それをあえて理路とは関係なく「会田某」と不定称形で言う。その言い方には「批判」以前の問題として会田氏をはじめから「貶めよう」とする意志が働いています。

そういう「批判」のありようは「マズイ」のではないか、というのがⅠ氏の問題提起でした。そうした問題提起者を指して、仮に「安穏にくびまでどっぷりつかっている」人の例示としてあげているのならば、そうした評価は正しい評価とはいえないだろう、と私は思います。

なお、ポール・ニザンはサルトルなどの評論を通じて私も名前だけは知っている作家ですが、彼の著作を直接読んだことはありません。「文学とは読者を『不快にする』ものだ」という彼の評言はなんという著作の中での評言でしょうか? ご教示いただければ幸いです。

なお、さらに、私は昨日、会田誠氏の「犬」シリーズ問題の二便として「『犬』シリーズの評価をめぐって(2) 報道と参考記事(重要な指摘)」という記事を書きました。

その中で、私は、フランスでの事例をあげて「カナダ、EU諸国、オーストラリアなどの主要先進国においてはすべて、これらは違法な児童ポルノとして処罰の対象になっています」とするポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)の主張の誤りを実証的に指摘しているサイトの論を紹介しています。これもご参照いただければ幸いです。

なおまた、同記事の中で、会田誠氏のお連れ合いの岡田裕子さんのこの問題についての意見も紹介しています(岡田裕子さんの意見がある、という事実だけはすでに紹介ずみですが)。

その岡田裕子さんの意見は次のようなものでした。

「はい、わたしはこんな展覧会に呼ばれる作家です。ちなみにブルックリンミュージアムのグローバリズムフェミニズム展は、それはそれで過激な表現が多く見られ、ヌード、流血、自傷等。目玉はジュディシカゴのディナーパーティ、女性器を模した皿が巨大な三角のテーブルに並べられているというもの。性的な表現はむしろフェミニストアートに多いのです。しかしフェミニストアートはポルノを彷彿とさせる表現であっても作者が女性であること、主題の内容などの関係でフェミニスト団体からのクレームはあまり無いように思います。では作者が男性であっても主題によってはそれが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう。そのためには実際に作者の展覧会を観る事、画集、著書等熟読したのち議論の場に立つべきで、そうでないと水掛け論で終わってしまい、断絶が深くなる一方かと思われます。そもそも議論のきっかけと成り得るのが美術作品の存在意義のひとつであるでしょうし。以上、会田誠妻つぶやきでした。『妻』と言われると痒いんですが…。美術を志すパートナーだと思ってます。今後も表現の上では、劇団★死期など協力体制を取るものもありますが、個人としては全く主題が対立したものも制作する事もあるでしょうし、お互いにそういう理解のもとで付き合ってます。」(

上記の岡田さんのご意見のうち「性的な表現はむしろフェミニストアートに多いのです。しかしフェミニストアートはポルノを彷彿とさせる表現であっても作者が女性であること、主題の内容などの関係でフェミニスト団体からのクレームはあまり無いように思います。では作者が男性であっても主題によってはそれが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう」という指摘は、いまある多くのフェニミズム団体、あるいは個人(フェミニスト)の思想の欠陥の本質を衝いたとりわけ重要な指摘であるだろう、と私は思っています(実は私も岡田さんのご意見とほぼ同様の思いを長い間抱き続けています)。

追記:彦坂諦さんからの返信。

東本さん、
 
なるほど、そういう受けとりかたもあったのですか。
わたしとしては寝耳に水でしたが、そう言われてみれば、
だれのどのメールに返信というかたちをとるかについても
じゅうぶん慎重にしなければいけないのだと
思いしらされました。軽率でしたね、わたしは。

Ⅰさんそのほかの、あなたがあげておられるかたがたに
向けた発言であると受けとられるかもしれないなどとは
これっぽっちも予想してなかった。
もちろん、わたしの意図はそんなところにはありません、。
したがって、そう「受けとるほかない」ということを前提にした
あなたの批判には関心がありません。

ひとつだけ、
先便では「美術批評をする気はありません」と書いたけれど、
美術批評にかぎらずどのような芸術論もするつもりは毛頭ありません。
うんざりしているのです。

ニザンのやったことは、当時の「術語」で言えば「プチ・ブルジョワジー」に属するひとびとを不快にさせることでした。
わたしが「その安穏にくびまでどっぷりつかっている」と言って暗示しようとしたのは、

白井愛が後半生のすべてをかけて、むなしく刃をつきつけたひとたちです。
このわたしやあなたのことです。

わたしはニザンを「引用」などしていません。
ニザンという作家がその生涯と作品をとおしてやろうとしたことを
わたしのことばでのべたまでです。

典拠をあげるつもりはありませんが、それでも気になるとおっしゃるのなら、日本語で読める文献としては、ジャクリーヌ・ライナー他『今日のポール・ニザン――ポール。ニザン著作集・別巻2』(浦野衣子訳、晶文社1975)の冒頭にあるイヴ・ビュアン「ニザンあるいは不快感」でも御参照あれ。

イヴ・ビュアンのこのエセーには、エピグラフとしてサルトルのことばが
引用されています。この二人の対話のなかで発せられて(いる)ことばです。
「不快感をとり去ってしまえばもう芸術はなくなってしまう」(『クラルテ』1964年3-4月号)
(ちなみに、malaiseは「いごごちのわるさ」とも訳せます。)

ここで発せられたのとおなじ発音のことばがあまりにも浅薄にもちい(ら)れているという気がした(だれがどのようにといった詮索はいたしません)ので、ついつい筆がすべっただけ。

彦坂 諦

追記2:東本(ブログ筆者)の再返信

彦坂さん

特定の人を対象にした返信なのか? それとも「文学とは読者を『不快にする』もの」ということについての彦坂さん流のポール・ニザンの解釈を一般論として述べたものなのか? 彦坂さんの発言の意図は奈辺にあるのか? 私としては量りかねたので「質問」の形をとらせていただきました。が、彦坂さんの発言の意図は私の解釈とは別のところにあった、ということがよくわかりました。私の解釈は誤りであったことをお詫びして取り下げます。失礼の段はご容赦ください。

しかし、ある議論の過程の発言はそこでの議論の文脈と無関係にあるのではない、ということは、彦坂さんにもご留意していただきたいことです。私のような誤解も生じかねませんので。

「不快感をとり去ってしまえばもう芸術はなくなってしまう」(ちなみに、malaiseは「いごごちのわるさ」とも訳せます。)ということばと「おなじ発音のことばがあまりにも浅薄にもちいられている」という「イヤな気分」がくすぶっておられたのですね。そういうことをひとこと書いていただいていれば私も誤解しなかったのですが・・・

東本高志

追記3:前田朗さんからの「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」報告(2月6日)

昨日、「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」を開催しました。簡単な報告です。

私はあいにく風邪をひいていて、しかも、前日から、ネット上ではこの件で私に対する誹謗中傷が飛び交っていましたし、「潰せ」などという書き込みもあったので、やや神経質になりながら開会しました。

途中、会田誠擁護派の男性1名が、パネラーに対する誹謗中傷をしたり、反対意見の女性に駆け寄ってつかみかかったり(他の参加者2名が割って入って事なきを得ました)、罵声を浴びせながらカメラを向けるなど、暴力的な行為があり、騒然とする一幕がありました。主催者の指示を無視し、叫んだり、恫喝をしたりという、妨害行為です。会田誠派はこういう人たちだと言いたくもなりますが、この人物個人の問題です。会田誠氏本人とはまったく無関係の人です。

しかし、他の参加者はとても冷静に対応してくれて、最後まで有意義な会を持つことができました。

前半は、個人として森美術館に抗議した宮本節子さん(ソシャルーワカー)、ポルノ被害と性暴力を考える会の森田成也さんから、それぞれ抗議に至った経過や、ポルノによる性差別と暴力性、ポルノを公共の空間である美術館に展示することの問題性についてお話しいただきました。

続いて、私が「芸術とスキャンダル」について、芸術が結果としてスキャンダルになった時代から、スキャンダルを引き起こしてそれに「芸術」というレッテルを張る時代への変化に触れ、芸術だから何をやってもいいという「芸術特権論」、芸術至上主義のもとで自己目的と化したスキャンダル・アート、勘違いお騒がせアートの話をしたうえで、森美術館問題については博物館法の基本に立ち返ることを述べました。

後半、会場発言では、11人の発言がありました。3人のパネラーに対する疑問や批判的立場からの発言を優先したところ、4人の発言がありました。公共空間を具体的に定義できるのか(電車の中、美術館、一般の出版物など)。スウェーデンでは漫画は児童ポルノに当たらないという判決が出ている。暴力被害と言うが、喜んでいる女性もいるではないか。絵画の場合と言葉による表現など、表現形態によってどこがどう違ってくるのか、などなど。

その後、展示を見た人たちが「犬」シリーズへの批判的感想を述べました。女性差別問題に取り組んでこられた方たちの発言は、宮本さんの報告を補足するとても良い発言になりました。

他方、「15歳の時に初めて見て会田作品のファンになった。東京に出てきて森美術館の展示を見られてとても嬉しかった。この会で、まったく違う見方をする人がいることがわかって、良かった」という発言がありました。暴力の後で騒然とした時に、若い女性がこの発言をしてくれたのはとても良かったです。

終了後、何人もの方から、「こういう時期によく開催してくれた」「とてもいい集会だった」との言葉をかけていただきました。

今回は、1月31日に準備を始めてわずか6日でしたので、討論としては不十分ではありましたが、やってよかったとホッとしています。

感情的対立からヒートアップしがちなテーマで、あえて火中の栗を拾って抗議の声を上げ、パネラーとして発言していただいた宮本さん、森田さんのおかげです。感謝します。

今回不十分だったのは、美術館とは、という討論を詰めることができなかったことです。学芸員や美術評論家のご意見がほしいのですが、準備期間が短すぎました。次回、なんとか第2弾をやりたいと考えています。
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