ある人から私の先のエントリについて、私がそのエントリで紹介している保立道久さん(歴史学者)の論は「嘉田氏(滋賀県知事)や未来の党の政策や行動への批判が主題ではなく、それをダシにして、嘉田知事という個人を批判するのがこの文面の目的であり主題である」という批判がありました。また、その論で菅直人元首相を「その種の単なる政治芸人である」と批判しているが、それは「個人攻撃というべきものであり、人格批判というべきものである」という批判がありました。

しかし、上記の批判は、前エントリの趣旨をよく理解しえず、また、そこでの問題提起を基本的なところで読み誤まっているいわゆる謬論としての批判でしかないと私は思っています。「個人攻撃」や「人格批判」という批判は人間の尊厳の問題の追究をライフワーク(生涯の課題)にしている私にとってただごとの批判ではありませんので、その論の誤りについて私の思うところを書きました。以下、「『保立道久さん(歴史学者)の問題の本質をつくカッコつき「脱原発政党」批判と環境学者知事としての嘉田由紀子氏批判』の読み方」というテーマでエントリしておきます(もちろん、「読み方」はいろいろであってもいいのですが、書かれていることをきちんと読み取ったうえで、という前提は最小限の「読解」ルールというものであろうと思います)。

Oさん

あなたがおっしゃるように保立道久さん(保立さんは歴史学者というだけでなく、「九条科学者の会」の呼びかけ人のおひとりでもあります)の嘉田氏批判を「嘉田氏の人物評」、嘉田氏への「人格批判」と捉える見方ももちろん成立しないわけではありません。

保立さんは嘉田氏の「琵琶湖文化館の廃館」という政治判断(この問題については「追記」をご参照ください)、すなわち、嘉田氏の政治家としての「思想」の立ち位置を問題にしているのですから、一般にその「思想」も含めて「人格」と名づけられている以上、その批判にある種の「人格批判」が含まれることはものの道理として避けることはできません。しかし、そういうことがいけないというのであれば、およそ思想批判なるものはすべからくできない、という道理にもなります。しかし、そういう道理などありえるはずがありません。

たとえば『日本思想史研究』という学問の分野がありますが(ちなみに保立さんは日本中世史の研究者です)、この「日本思想史研究」というのは先人及び同時代人の思想を「批判」する、あるいは継承する研究の体系といってもよいものです。ここではたとえば江戸期の学者の荻生徂徠伊藤仁斎本居宣長などなどの先学はもちろん、現代の思想家の丸山眞男(故人)や加藤周一(同)などなども「批判」の対称になっています。そして、そのいずれも先学、あるいは同時代人の「思想」批判である以上、そこには当然「思想=人格」(思想的アイデンティティー)批判も含みます。しかし、そういう研究がいけない、ということには当然ならないでしょう。

保立さんの嘉田氏の思想的アイデンティティーを問う嘉田氏批判を「人格批判」だとして非難しようとするあなたの仕業は論理的なものということはできません。つまり、当たらない批判だということです。

また、保立さんの「未来の党(?)と歴史学」という論攷の主題は「嘉田知事という個人を批判する」ことを目的にしているわけではありません。先のエントリ記事で私が要約しているように保立さんの同論攷の主題は「脱原発政党」のあり方を問うものです。「未来の党」の問題、嘉田氏の政治姿勢の問題はその具体例としてとりあげられているということにすぎません。あなたは保立さんの論攷での「『脱原発』を真に実現するためにはどうすればよいか」というその甚深な問題提起の本質を基本的なところで読み誤まっているように私は思います。

さらに保立さんの菅元総理に対する「政治芸人」という評言も私は言い得て妙だと思います。保立さんはあなたが非難する「政治芸人」という表現のすぐ前で次のように言っています。

「さらに基礎的な条件としては、現在国会に存在する政治家の多数が、客観的にいって、原発の体制を追認し、推進してきた人物であることである。彼らはまったく必要な反省をしていない。現総理大臣についてはふれないとしても、前総理大臣はその最たる存在であって、彼は以前は「反原発」をいっていたにもかかわらず、権力の座につくや手のひらを返したように、原発業界に媚を売り、原発のアジアへの輸出の旗を振り、さらには原発事故に際して決定的な誤りをした。最初の政綱を放棄するような政治家は三文以下の存在である」、と。

実際に菅元総理は菅内閣時の2010年6月18日に「原子力発電を積極的に推進する」「核燃料サイクルは、(略)確固たる国家戦略として、引き続き、着実に推進する」などとする「エネルギー基本計画」を同内閣の公式見解として閣議決定しました。この閣議決定はその後の民主党内閣においても変えられることなく生き続けてきた、というのもまた事実です(「「原子力基本法の基本方針に『安全保障に資する』と加える改正案の撤回を求める」世界平和アピール7人委員会のアピールと私のコメント ――民主党政治を弾劾する」弊ブログ 2012.06.21)。

さらにまた、民主党は、2011年3月31日にあった「日本からヨルダンに原子力技術を供与するための原子力平和利用協定締結承認案件」(原発の海外輸出)の国会での投票の際、参議院において全員賛成票(衆議院においてもほぼ全員が)を投じましたが、菅元総理ははこのときの民主党内閣の総理大臣でもありました()。

保立さんの上記の指摘に誤りはありません。その政治事象について評言し、その際の政治事象の立役者である菅元総理を「政治芸人」と指弾する。そのことに何の「人格批判」的な問題があるというのでしょう?() 私は保立さんの上記の政治批判はまっとうな、まっとうすぎるほどの政治批判の評言だと思います。思想批判と人格批判はときには一対のものであるということはすでに述べていることです。

注:裁判上で「人格批判」が問題になるのはほとんどの場合私人への名誉毀損の場合ですが、政治家(公人)に対する「人格批判」の場合には「相当性の抗弁」の法理が適用されて、その要件に該当する場合は名誉毀損の成立は認められません。

追記:琵琶湖文化館の「廃館」問題についてもひとこと述べておきます。あなたは「その批判の根拠も疑わしい」などとも言われていますが、なにが「疑わしい」のでしょう? 保立さんは嘉田氏は「琵琶湖文化館の廃館に責任がある」と指摘されていますが、同館は「休館」という名目で2008年3月から2013年1月の今日まで閉鎖されたままになっており、事実上の廃館状態になっています。

この間知事職をつとめていたのは嘉田さんです。その嘉田さんに「琵琶湖文化館の廃館に責任がある」という保立さんの主張には根拠があり、もっともなご主張だと私は思います。

琵琶湖文化館は、施設の老朽化の問題や、施設の制限でせっかくの文化財を有効に管理・活用できていないなどの問題も指摘されているとのご指摘ですが、それならば知事として「有効に管理・活用」できるような施策を講じればよいのであって、事実上の廃館状態を続けている釈明にはならないでしょう。また、「耐震などの安全面で問題があるために使用出来ない」というのであれば建物の改築、再築を視野にいれて施策を講じればよいことです。「嘉田知事が廃館を推進したかのような物言いは、私には言いがかりにしか聞こえない」とも言われていますが、嘉田氏が知事職のこの約5年の間、同氏は同館を事実上の廃館状態のままで放置しているのですから、嘉田氏は「廃館を推進している」と評価されても弁明の余地は少ない、というのが私はふつうの評価というものだと思います。「(嘉田氏は)琵琶湖文化館の廃館に責任がある」という保立さんの指摘はまっとうな指摘というべきものでしょう。
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