以下、伊達純さんのこちらのCML投稿への私の返信です。

伊達さん。ご紹介の開沼博さんの問題視点、また問題提起(下記画像は別記事)は重要ですね。

開沼博  
朝日新聞「私の視点」(2011年3月29日付)

私も伊達さんと同様に「全てに同意・共感するものではありません」が、開沼さんの問題視点、問題提起には共感するところ大です。

私は、伊達さんはあえて引用から除外しておられるのだと思いますが、次のような開沼さんの指摘にも肯首させられます。

「他地域から立地地域に来て抗議する人たちは、言ってしまえば『騒ぐだけ騒いで帰る人たち』です。震災前からそう。バスで乗りつけてきて、『ここは汚染されている!』『森、水、土地を返せ!』と叫んで練り歩く。/農作業中のおばあちゃんに『そこは危険だ、そんな作物食べちゃダメだ』とメガホンで恫喝(どうかつ)する。その上、『ここで生きる人のために!』とか言っちゃう。ひととおりやって満足したら、弁当食べて『お疲れさまでした』と帰る。地元の人は、『こいつら何しに来てるんだ』と、あぜんとする。」

私は、おそらく開沼さんは、少なくない脱原発活動家たちからの反感と反発、ブーイングは覚悟の上で、しかし、ただ鎮座し、黙視したままでいることの後世への無責任、ないしは3・11以後を生きている同時代人、また、その同時代に遭遇した若手研究者としての歴史的責任、ということを思っての覚悟の言辞だろうと思います。そうであれば、私たちは単純に開沼さんの指摘に反発するのではなく、彼がおそらく反発を覚悟で述べている真率の声を聴きとるべきだと思います。

彼は次のようにも述べています。

「3・11を経ても、複雑な社会システムは何も変わっていない。事実、立地地域では原発容認派候補が勝ち続け、政府・財界も姿勢を変えていない。それでも『一度は全原発が止まった!』と針小棒大に成果を叫び、喝采する。『代替案など出さなくていい』とか『集まって歩くだけでいい』とか、アツくてロマンチックなお話ですが、しょうもない開き直りをしている場合ではないんです。」

「批判に対しては『確かにそうだな』と謙虚に地道に思考を積み重ねるしか、今の状況を打開する方法はない。『脱原発派のなかでおかしな人はごく一部で、そうじゃない人が大多数』というなら、まともな人間がおかしな人間を徹底的に批判すべき。にもかかわらず、『批判を許さぬ論理』の強化に本来冷静そうな人まで加担しているのは残念なことです。」

上記のように言う開沼博さんとはどのような人か? 松岡正剛氏の次の記事が彼のひととなりをうまく言い表しているように思います。同氏の「開沼博『フクシマ』論――原子力ムラはなぜ生まれたのか」(「千夜千冊番外録」)という書評(同頁の3番目の記事)をもってご紹介に代えさせていただこうと思います。

開沼博「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか(松岡正剛 千夜千冊番外録 1447夜 2011年12月28日)

開沼さんはなかなか骨のある少壮研究者のように思えます。

ところで、少壮の研究者といえば、雑誌「世界」元編集者(現岩波社員)の金光翔さん(この人は「研究者」というよりもどちらかといえば「思想者」と呼ぶべき人でしょう)が自身のブログに「社会分析と『専門家』」(2012年8月7日付 )という記事を書いています。

その中で金さんが引用しているチョムスキーが「社会分析と『専門家』」ということについてなかなか示唆的なことを言っています。下記のチョムスキーの指摘を踏まえた上でも開沼さんの「社会分析」はインテリという立場を離れて、ふつうのひとりの市民としても「諸事象をしっかりと見つめ、議論を深めていく意志」を感じさせるもののように私は思います。

以下、チョムスキーの発言の引用。

「イデオロギーの分析の場合、視野の広さと知力とがいささかあり、それに健全なシニシズムがあればたくさんだ。(略)こういうわけだからこそ、専門の訓練を積んだ知識人だけが分析的な仕事をできるといった印象を与えてはいけないわけだ。それがまさしく、インテリが信じ込ませようとしていることなのだから。インテリは、門外漢にはわからない、ふつうの人のうかがい知ることもできない企てに自分が参加していると称する。これはまったくのナンセンスだ。社会科学一般、とりわけ現代の事件の分析は、これに十分関心をもとうとする者ならだれにでも完全に手が届く。こうした問題の「深奥」とか「抽象性」とかいったことは、イデオロギーの取締り機構が撒き散らす幻想に属するもので、そのねらいは、こうしたテーマから人々を遠ざけることにある。人々に、自分たち自身の問題を組織したり、後見人の仲介なしに社会の現実を理解したりする力がない、と思いこませることによって、だ。(略)イデオロギーの分析の場合には諸事象をしっかりと見つめ、議論を深めていく意志があれば十分だ。デカルトの良識、「もっとも公平に配分されているこの世のもの」、これだけが必要なのだ…。デカルトの科学的なアプローチとはこのことだ――つまり開かれた精神でもって事実をみつめ、仮説を検証し、そして結論に到達するまで議論を深めていく意志のことだ。これ以上には、門外漢にわからないような特殊な知など、これっぽっちも必要ではない。たとえ「深奥」を究めるためでもだ。だいいちそんなものは存在しない」

上記のチョムスキーの発言に関する金光翔さんのコメント

「「論壇」好きの(左派を含めた)教養俗物層の「専門家」崇拝については今さら語るまでもない。上のチョムスキーの発言くらいは、最低限の共通の前提として、各人が持つべきものだと考える。」

さらに上記の金光翔さんの発言に関する東本のコメント:

金さんの発言は少しキツイですが、私も基本的に賛成です。私たちのいま(1990年代後半以後)の最大の思想的課題というべきではないか、とさえ私は思っています。ことに3・11以後の。いま、私たちの眼が試されている、のだとも。
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