私は先に本ブログ(2012年1月16日付)において「ドキュメンタリー映画『"私"を生きる』(監督・撮影・編集/土井敏邦)の評価には負の意味で留保するべき点がある」という記事を書きました。本エントリはその記事の続き、あるいは後日譚、それも私から見ていまも続く負の現象(「負」を「負」として認めない)の後日譚ということになります。

この4月1日に神戸市のシネマカフェチェリーという映画館で同ドキュメンタリー映画「“私”を生きる」で描かれる3人の抵抗者たちのおひとりの土肥信雄さん(元都立三鷹高校校長)を迎えて「市民社会フォーラム第25回映画鑑賞会」という映画鑑賞会が催されたようです。

私のこの一文は、同映画鑑賞会を主催された市民社会フォーラムの岡林信一さんの同鑑賞会を終えての次のような感想の弁への違和感の表明ということになります。岡林さんはその感想の弁の中で次のように述べています。上述のような批判があったことを念頭においた上での感想、あるいは反批判ということになるでしょう。

「MLでは、『“私”を生きる』と土肥信雄さんについて、いろいろと意見がありましたが、私も直接ご本人と忌憚ない意見交換をして、ネット上やこの映画だけでは分からなかった、教育現場での言論の自由を守るためにたたかっている真摯な思いを受け止めることができました。/私の印象では、映画で描かれた土肥さん以上に、校長として君が代斉唱不起立をした教師2人を報告せざるをえなかった葛藤が、今日の交流会で伝わりました。」

「土肥さんは卒業式の前に、組合と話し合いして、不起立を決意している教員のリストを知らせてもらって、その人たちは処分されないように式外の要員にまわすことを合意していたとのこと。でも、不起立をした一人は組合との話し合いの情報を知らず、組合が把握していなかった。もう一人は、担任として式に出て不起立することはわかっていたが、通報もなく、かつ本人も不起立を否認したら、土肥さんは都教委に報告するつもりはなかったと。結局、不起立の報告があった。でも、本人が否認してもらえれば、報告しなくて済む。でも本人が認めているならば、法令順守して報告せざるを得ない。(起立したと言ってもらったよかったのにと)/本当に葛藤があったことを強調されていました。/都教委に報告する前にも、処分対象になること二人の教員と事前に話し合い、都教委の審議会でも二人の教員の処分は不当であると報告もした。その一人とは今でも話をする関係を保っている。」(市民社会フォーラムメーリングリスト 2012年4月1日付けより)

上記の岡林さんの感想の弁によれば、土肥さんは、「担任として式に出て不起立することはわかっていたが、通報もなく、かつ本人も不起立を否認したら、都教委に報告するつもりはなかった」と発言されたよしですが、この土肥さんの弁明は、端的に言って彼の自己合理化以外のなにものでもないだろう、と私は思います。そして、その自己合理化の論理にすぎないものを正当な論拠のように言い為すところにとてつもない違和感を私は感じます。

日の丸に向かっての起立は、憲法にも、教育基本法にも、自分の教員としての教育理念にも反する、という思いのもとに確信的に不起立した人がどうして自分のその確信的な行為について「否認」するようなことをするでしょう? また、起 立していないものを「起立した」などとうそを言うことがあるでしょう? そのおのれの確信的な行為を「否認」すること、あるいはうそを言うことは、おのれをおのれ自身で冒涜することと同じことです。そのようなことを確信的に不起立した人がどうしてするでしょう? この土肥元校長の発言には他者の理念への思い遣りが決定的に欠けてい ます。人は理念のためには死を選択することだってありえるのです。戦前の共産党員はまさにそういう状況下に置かれていました。共産党シンパらしい、そして知識階層に属する土肥さんがそういうことを知らないはずがありません。近代的理念の成立する以前の封建時代の世ですら人は恥をさらすよりは死を選択することもあった。そういう人は、武士に限らず、農民にも町人にも決して少なくなかったのです。

そうした他者の理念への敬仰、尊敬の思いがあれば「本人も不起立を否認したら」などいう不遜な言葉は土肥さんの口から決して発せられることはなかったでしょう。他者認識に関して、土肥さんには決定的な認識の不足があるように私には見えます。

土肥さんの「法令順守して報告せざるを得ない」という発言にも私は彼の自己合理化以上の思想を見出すことはできません。職務執行命令の順守ももちろん法令順守であるに違いありませんが、憲法順守、教育基本法順守という法令順守も当然あるのです。憲法、教育基本法という上位の法律と職務執行命令という下位の法令の間に重大な法的齟齬があれば人は法律的にも下位の法令を拒否できるはずです。少なくとも論理的には。そして、日の丸、君が代強制反対の不起立者の多くはそうした論理を武器に闘っているのではないでしょうか。仮に校長として不起立者の都教委への報告義務を破ったとしても多くの不起立教員と同様に土肥さんもそうした論理を武器に闘うことができたはずです。そうした自身の闘いの道筋を放棄しておいて「法令順守して報告せざるを得ない」と言うその彼の思想の中に自己合理化以上の思想を見ることは私にはできません。そこにあるのは前田さんの言われる「『あなた』を切り捨て、『彼ら』を踏みにじりながら、『私』をいとおしむ精神」(「小さなアイヒマンにならないために」CML 2012年2月18日付)でしかないように私も思うのです。

私も土肥氏の個人攻撃をするつもりは毛頭ありませんが、そうした土肥氏を「闘う人」であるかのように描く映画、その上映運動には私はやはり大きな違和があるというほかありません。

追記(2012年4月11日)

私の本エントリの問題提起に呼応して増田都子さんが市民のML(CML)というメーリングリストに下記のような投稿をされています。ご紹介しておきます。

■東本さんに触発され!? FW: 続・ドキュメンタリー映画『"私"を生きる』(監督・撮影・編集/土井敏邦)の評価には負の意味で留保するべき点がある(CML 2012年4月10日)
http://list.jca.apc.org/public/cml/2012-April/016121.html
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