【論旨要約】
脱原発主義者を自称する一部の人たちがハシモト的なもの、みんなの党的なものに傾斜する現象について、脱原発と新自由主義的な経済思想には実のところ親和性があること。さらに新自由主義の政党であるみんなの党のマニフェストは「新自由主義」的に読めるのはもちろん「脱・格差社会」的にも読めるという可塑性を持っていることなどの分析を通じて、ハシモト的なもの、みんなの党的なものへの傾斜は、自民党政治的なもの、保守政治的なものの政治回帰に手を貸すことにつながり、結果として脱原発主義者が自らの主張の生命とする脱原発の理念すら裏切ることにしかなりえないことを論証する。

いまやいうまでもないことですが、「脱原発」は福島以後、わが国多数派市民の世論そのものになっている、とみなしてよいことは下記のわが国を代表するメディアの世論調査などを見ても明らかなことだといってよいでしょう。

将来的に「脱原発」賛成74% 朝日新聞世論調査(朝日新聞 2011年6月13日)
「脱原発」70%賛成、共同通信の世論調査(共同通信 2011年7月24日)

それだけにあまりにも当たり前すぎて見逃されているある問題があるように私は思います。それは、脱原発とはなにか? という基本的でもあり、かつ根底的でもある理念の問題です。しかし、その見逃されている脱原発の理念の問題をいうためには、少しく遠回りして脱原発運動とポピュリズムのある種の親和性について述べておく必要があるように思います。仮に大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと規定するならば(「知恵蔵2011」朝日新聞社)、脱原発運動はまぎれもなくポピュリズムの運動です。したがって、脱原発運動の中にポピュリズムの思想、またポピュリズムの弊が入りこまないという法はないのです。

しかし、これもいうまでもないことですが、ポピュリズムの思想はひと色ではありません。辞書的に見ても、ポピュリズムという語には上記の「大衆の基盤に立つ運動」という意味のほかにも「大衆主義」、「民衆主義」(注)、「衆愚政治」、「カリスマ性のある為政者が大衆の評判を集める政策を行ない、内外の危機を煽るなどして民衆を扇動する主義」などさまざまな意味があります(「ポピュリズム」Wikipedia)。ここで私が「ポピュリズムの弊」と言っているのは「民衆を扇動する主義」という意味においてです。現代ではこの用法がもっとも一般的な用法として用いられています。ドイツのヒットラーやイタリアのムッソリーニなどのポピュリズムにこの用法は適用されてきました。

:脱原発運動をポピュリズムというとき、私は、この「大衆主義」、「民衆主義」の意で用いています。

さて、脱原発運動の中にポピュリズムの思想、またポピュリズムの弊が入りこんでいるひとつの例として、私は、先のエントリ記事でも少し触れておいたのですが、これまで「脱原発運動の旗振り役」「脱原発運動の雄」とみなされてきた(そして、いまもみなされている)環境エネルギー政策研究所長の飯田哲也氏の例をあげてみようと思います。飯田氏はこの1月31日にTwitter上でその掲げる「愚民」政策(たとえば一見庶民受けする公務員たたき政策)と言動によって一躍ポピュリスト知事として全国的に名を馳せることになった橋下現大阪市長を絶賛する次のようなメッセージを発信して少なくない脱原発派市民を驚かせました。

橋下徹大阪市長(@t_ishin)を囲む企画の朝生(1/27)をiphoneへの録画で見る。批判サイドが抽象論・形式論・重箱のスミ論に留まっていたのに対し、政策の実質・実現などリアルを問い続ける橋下市長の独壇場。問題意識とアプローチが飯田も全く同じで共感。

しかし、飯田氏が「政策の実質・実現などリアルを問い続ける橋下市長」と絶賛する橋下市長の「リアルな政策」とは、辛淑玉さんが「ウケ狙いの政治の果て」(週刊金曜日748号、2009年4月24日)という論攷で見事に喝破しているように「社会の変化についていけず、被害者感情を募らせている一般大衆の持つねたみやそねみを、八十年代以降のリベラルな社会運動がもたらした制度改革によって社会上昇を果たしたマイノリティに対する攻撃に誘導しようと」すること。「大衆の中にある差別感情を扇動することによって(略)資本の手先となって『大衆の敵』を作り出し、本当の敵から目をそらさせ、日本を政治のガラパゴス化させる」というたぐいの「リアルな政策」でしかありません。事実、橋下氏が08年1月の府知事選挙で公約し、かつ知事就任直後に断行しようとしたのは国家公務員の給与を100とした場合、大阪府の給与水準は全国最低の89になるという「リアル」な大幅な府職員給与の削減政策でした。

この点について、辛淑玉さんは、「彼らの常套手段は『公務員攻撃』だ。カメラの前ではこれがウケる。公務員はその仕事の割に高給を取っているというのがその理由だが、バブルの頃は優秀なやつは公務員になどならなかった。今は、民間の給与水準が低下したために、相対的に地方公務員が給与が高くなっているだけだ。/労働者の組織率が低く、組合運動が弱い地方の民間企業の労働者が資本の攻撃に負けた結果として賃金の崩壊が進んだにもかかわらず、その大衆のうっぷんを地方公務員に対する怨嗟と八つ当たり攻撃にすり替えた。まさにウケ狙いの政治だ」(同上)とやはり見事にその橋下ポピュリズム政策の本質を言い当てています。

メディアもその当時のポピュリズム政治の風潮を「職員の待遇や税金のあり方に疑問を投げかける首長が全国で相次いで生まれている。/08年1月の大阪府知事選で、人件費カットを含む財政健全化を訴えた橋下徹氏が当選。今年4月の名古屋市長選でも、『市民税10%減税』『職員人件費10%削減』などを掲げた河村たかし氏が圧勝した。橋下氏は職員の基本給カットを実施。竹原氏の職員年収公開を評価し、府幹部職員のモデル年収を府のHPに掲載した」(「『職員厚遇』不満が追い風 阿久根市長選で竹原氏再選」朝日新聞 2009年6月1日)などと報じています。

いまや橋下氏のポピュリズム政策は、大阪市職員への思想チェック、業務命令としての組合破壊「アンケート」という憲法違反、地公法・労組法違反も甚だしい法を恐れぬ究極のポピュリズム政策にまで突き進んでいることは大阪市民だけでなく、広く衆人の知るところです。私はかつて竹原阿久根前市長と橋下大阪府知事(当時)の似非「革命」家、ポピュリストとしての著しい類似性を指摘したことがありますが(弊ブログ 2009年6月1日(2010年3月29日)付)、竹原前市長は「自治労は阿久根から出て行ってもらう」と宣言し、事実、阿久根市職員労働組合に対して市庁舎内の組合事務所の明け渡しまで求めましたが、結局、裁判にも負け、選挙にも負けました。いま橋下氏はその竹原氏と同じ末路を歩もうとしているかのようです。ポピュリズムの行き着くところというべきでしょうか。

参考:
おまけとしてこの橋下氏のおのれの敵対者(それも主観的な)への人格攻撃と悪罵だけを取り柄とするおよそポピュリストに典型的といってよい人を貶める作法にのみ長けた語り口もご紹介しておきたいと思います。この1月15日に放送されたテレビ朝日系列の「報道ステーションSUNDAY」における橋下氏と山口二郎氏(北大教授)の討論番組での語り口。その彼の他者に対する人格攻撃と悪罵の連発のおぞましさの性質についてはぽぽんぷぐにゃんラジオのキャスター氏が実に正鵠を射た小気味よい批判をしています。「朝生(1/27)」を視聴しての飯田氏の橋下観といかに雲泥の差があることか(嘆息)。一見(聴)の価値があると思います。ぜひご視聴ください。

橋下市長VS山口二郎教授について。(ぽぽんぷぐにゃんラジオ 2012年1月16日)

飯田氏はそうした橋下氏のポピュリズム政治に「問題意識とアプローチが飯田も全く同じで共感」というエールを送っているのです。その飯田氏の根底的な誤りを指摘することはたやすいことですが、なにゆえに飯田氏はそうした橋下ポピュリズムにいとも簡単に、そしていとも熱烈に共感を示しえるのか。それがここでの問題です。

この点を考える上においてブログ「きまぐれな日々」を主宰する古寺多見さんの考察が参考になります。古寺多見さんは彼のもうひとつのブログ「kojitakenの日記」の2012年2月2日付け記事において「世に倦む日日」ブログの管理人氏の「飯田哲也の橋下徹礼讃は凄まじいな。『問題意識とアプローチが飯田も全く同じで共感』なのだそうだ。こういう人間の『脱原発』は信用できないな。ま、いずれ、橋下徹も渡辺喜美も、再稼働と原発推進へ舵を切るのは確実だが」という飯田氏批判をとりあげて半分同感の意を示しながらも次のように『世に倦む日日』管理人氏の考察の甘さを指摘しています。

この『世に倦む日日』の管理人氏の見通しは甘いと思う。「『脱原発』は左派のもの」という根拠のない思い込みがある。考えてみればすぐにわかることだが、国策で推進しなければ何の経済的メリットもない原発から脱却しようという考え方は、新自由主義と非常に相性が良い。だから、自民党内の新自由主義派である河野太郎や、元経産官僚で「みんなの党」やほかならぬ橋下徹のブレーンである古賀茂明は強力な「脱原発」論者だ。そして、飯田哲也は以前から河野太郎や古賀茂明と懇意である。私は、橋下徹は本気で「脱原発」をやると思う。なぜなら、現在の日本において、「脱原発」ほど国民に熱烈に支持される政策はないからだ。(注)

脱原発と新自由主義思想との親和性。ここに飯田氏に象徴される一部の新自由主義的な発想を持つ(昨今の「みんなの党」ブームを見るとこうした発想を持つ人々がいわゆる革新・リベラルを自称する市民の中にもいかに多いかがわかります)脱原発主義者がハシモト的なもの、みんなの党的なものに傾斜していくことのひとつの解が隠されているように思います。

:しかし、「『世に倦む日日』の管理人氏の見通しは甘い」という古寺多見さんの見通しも私は甘いと思っています。橋下氏は知事時代につくる会の歴史教科書を大阪府の全公立校で採択させようと再三試みていますが、その「つくる会」系2社の公民教科書の記述は「原発推進」で突出しています。このことは橋下氏は「脱原発」よりもつくる会の歴史教科書の採択の方に重きを置いているということを示しています。「世に倦む日日」ブログの管理人氏の「こういう人間の『脱原発』は信用できないな。ま、いずれ、橋下徹も渡辺喜美も、再稼働と原発推進へ舵を切るのは確実だが」という観測はマヌーバーとしての脱原発主義の本質を衝く指摘というべきで必ずしも邪推とばかりはいえないだろうと私は思います。

しかし、これまでいわゆる革新・リベラル的なものの見方を培ってきたことを自負し、そのことにひそかな矜持を持つ市民は決して少なくありません。そうした中で、革新・リベラルを自称する市民がなぜかくもやすやすと新自由主義的なものの見方、ものの考え方の罠にはまってしまうのか?

その罠は、たとえばみんなの党の打ち出すマニフェスト・政策の可塑性にあるのではないか、というのが金光翔さん(批評家)の見方です。金光翔さんはこの点について次のように言います。

「みんなの党」のマニフェストの特徴は、新自由主義というよりも、むしろその可塑性である。すなわち、「新自由主義」的に読めるのは勿論のこと、「脱・格差社会」的にも読めるのである。例えば、労働問題で掲げられている施策は、今の格差社会論の政策的な落としどころと思われるものから、そう外れていない。安全保障に関しても、小国主義的な護憲派からすればもちろん「右」であるが、憲法問題に一切触れていない点に象徴されるように、「リベラル」とでも「保守」とでも言えるようなものになっている。

そして、

もう一つの特徴は、「政治家や官僚の利権」、「特定の業界や労働組合」の「既得権益」の徹底した排除を強調する姿勢である。

このみんなの党のマニフェスト・政策の可塑性(私に言わせれば「可塑性」というよりも「マヌーバー性」というべきものですが)と「既得権益」の徹底した排除(しかし、官僚の「既得権益」の背後に隠然とする大資本の「既得権益」には決して手をつけようとしないのが新自由主義経済思想の特徴です)という「構造改革」の姿勢が、「自民党や民主党が構造改革路線を一時的に後退させていることに不満を持っている層に支持され」る理由であり、いわゆる革新・リベラルといわれる層からも支持されようとしている理由である、と金光翔さんは見ているようです。

上記の指摘以上にここでの金光翔さんの重要な指摘は、みんなの党の結党宣言に掲げられた「脱官僚」「地域主権」「生活重視」というスローガンと、かつての日本新党が立党宣言に掲げた「脱官僚」「地方分権の確立」「生活者主義」というスローガンがまるで「そのまんま」、酷似しているという指摘です。

日本新党は上記の立党宣言のスローガンを掲げて既成政党への有権者の不満を吸収する格好の政治的受け皿の役割を果たし、結党から2か月後の1992年7月の参議院選挙で4議席、その1年後の1993年7月の衆議院選挙では35議席を獲得し、当時の政界再編のキャスティング・ボートを握り、実際に同年8月には長期自民党政権からその政権の座を奪い非自民・非共産の細川連立政権を誕生させました。かつて日本新党が果たしたその役割をいま、みんなの党が担おうとしている。それが金光翔さんの見方といってよいでしょう。

しかし、その有権者の不満の政治的受け皿として政権まで奪取した日本新党が実際に戦後政治の転換の場面で果たした役割とはなんだったか。細川政権が遺したほとんど唯一の政治的実績は大政党に有利で、小政党に不利な「小選挙区制」という悪名高い政治「改革」でした。ここで導入された小選挙区制が後々まで民主政治実現の足かせとなっていることは誰もが知るところです。2大政党制という政治の場面には保守だけがあって、まるで革新など存在しないかのようなヌエのようなぬるま湯的風潮。すなわち一億総懺悔ならぬ一億総保守ともいうべき欺瞞に満ちた風潮が明らかに腐臭を放ち出したのもこの頃からのことです。もちろん、この風潮はメディアも含めてのことです。いや、この風潮を率先してつくり出したメディアの責任は大きいのです。こうして日本は一億総保守化の道を歩きはじめました。誰にも批判されず、もちろんメディアからも批判されず、批判する者はアホかとでもいう風潮の中で・・・ 

辺見庸のいう現代の深刻な目に見えないファシズム化はこうして進行しはじめたのです。その日本新党は細川護熙の国民福祉税構想の頓挫以降急速に求心力を失っていきました。こうして非自民・非共産の細川連立政権は1年に満たない短命政権で終わりました。小選挙区制という戦後政治の選挙制度上の最大の汚点を置き土産として。

その日本新党とみんなの党は単に立党宣言と結党宣言のスローガンが同じというだけでなく、政界再編、大連立という構想においても同じことをしようとしています。さらに金光翔さんは日本新党とみんなの党の政界再編、大連立構想が似ているということだけでなく、新党たちあがれ日本の代表の平沼赳夫氏の保守連立構想とも相似形だと指摘しています。

面白いのは、「みんなの党」結党宣言にあった「触媒」という言葉、上記の平沼の引用文にもあった「坂本龍馬」の比喩が、ここにも表れていることだ。この三者は役割を同じくしている。日本新党が、小沢一郎による「政権交代」劇の最大の協力者であったように、「みんなの党」も、より大きな再編劇で、同じ役割を果たすだろう。(同上)

金光翔さんは、みんなの党の政治戦略は、「みんなの党の党勢拡大→第三極の形成→大連立」というシナリオの達成にある、と見ているわけです。

脱原発主義者を自称する人たちのハシモト的なもの、みんなの党的なものへの傾斜はどこに行くのか? 結局、保守政党同士の大連立というみんなの党の保守連携戦略の思惑を見逃し、結果として民主党政権前までの長きにわたった自民党政治的なもの、保守政治的なものの復活に手を貸すことにしかなりえないだろう、というのが私の結論です。原発推進政治は主に自民党的な保守政治によって構築されてきました。その保守政治的なものの復活に手を貸すことにしかなりえないハシモト的なもの、みんなの党的なものへの脱原発主義者の傾斜は、自らの主張の生命とする脱原発の理念すら裏切るということにしかなりえないだろう、と私は思います。私がはじめに脱原発の理念と言ったのは、そういう単純な道理の問題を言っているのです。
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