本エントリは「『小沢支持者批判者の心理構造』という中立を装って小沢擁護の論を説く者への反論」の続きということになります。本エントリは私の左記の反論に反発してあれやこれやと言い募ってきた「ラブレター記事の人権感覚」という論への再反論という構成をとっているからです。しかし、その論は、ラブレターという一見艶なるものに見える問題にかこつけて見当違いに私の「人権感覚」を問題視する実態はおためごかしの民主党擁護論再版にすぎません。しかし、その民主党擁護論再版は、現在の政治状況の負の一面を現代の鈍色の世相の鏡として反映していることも確かです。その負なるものの如何を剔抉しておくことは有意ではあっても無為、無意味ではないでしょう。なお、公開型メーリングリスト上の論争の一端ですから対論争者の実名もそのまま掲げておきます。

林田さん

あなたの「ラブレター記事の人権感覚」という記事は端的にいって私のCML 014520及びCML 014512記事への反論記事だといってよいと思いますが、あなたが言いたいのであろうあれこれの反論の論点には相互に脈絡はみられず、論旨のつかみにくい文章になっています。

それでも、あなたの反論したいという強い気持ちだけはよく伝わってきますので、その意を汲んで、あえて論点を整理すると次の3つに要約できそうです。

第1。かつて東本がCMLに投稿した「ラブレター記事」(正確には「田原牧さんへのラブレター~ひとりの新聞記者」というタイトルの記事。ちなみに初出はインターネット新聞「JANJAN」2006年12月28日付)には投稿者の人権感覚を強く疑わせる内容が含まれている。

第2。福島第一原発事故の放射能汚染への対応策として除染と避難の何れを重視するかで大きな議論がなされているが、東本の論はきわめて特異な論というべきである。その特異性を認識する上でラブレター記事の問題を掘り起こす価値はある。

第3。東本は国民の期待を背負った鳩山由紀夫新首相(当時)への批判的な記事を評価しているが、それは革新政党への票を奪う危険がある民主党を貶めようという類の政治というものに対する根底的な認識不足が為せる業というべきものである。

そのほか私の論理の矛盾なるものを3点にわたって指摘しています。すなわち、続きものの論点とみれば、以下の3点を含む合計6点が私への批判ということになります。

第4。ある点では共産党を支持し、ある点では社民党を支持することを市民の立場で肯定しながら、ある点では民主党を支持する立場を認めない。

第5。福島からの避難を勧める主張を共感が得られないと批判する一方で、避難を強調して除染に否定的な立場を批判することは共感が得られなくても価値があると主張する。

第6。革新勢力や市民派からの新党設立を社民党や共産党の票の食い合いになると否定する一方で、「票の食い合い」という発想を政治意識として問題と批判する。

さて、第1の点から反論していくことにしますが、あなたはその第1の論点の「投稿者(すなわち、東本)の人権感覚を強く疑わせる」理由として「問題は男性の投稿者が女性記者に送るラブレターという表題になっている」ことをあげています。

しかし、ラブレターという語が表題に含まれていて、そのどこが悪いというのでしょう? そのどこに「人権感覚を強く疑わせる」ところがあるというのでしょう?

第1にラブレターという言葉は必ずしも異性間の恋文のやりとりを意味するだけの言葉ではありません。いうまでもなくラブレターは英語のlove letterが日本語化したものですが、その英語の
loveには「(肉親・友人・ペットなどへの)愛、愛情」「(他人の幸福を願う)愛情のこもった関心、善意」などの意味もあります。したがって、ラブレターという言葉には「(肉親・友人・ペットなどへの)愛、愛情をあらわす手紙」という意味もあります。

第2に私はくだんの記事の場合ラブレターという言葉を隠喩(メタファー)として用いています。すなわち、「その時彼がふと窓の外を見ると、一羽の鷹が、強風にも流されず、空中に静止していた」(注1)というたぐいの隠喩の言葉として用いているのですが、左記の文中にある「窓」がくだんの記事で私が用いた「ラブレター」にあたります。私は「ラブレター」という言葉に必ずしも一般的な意味としての異性間の「恋文」という意味にとどまらない敬意や尊敬、熱情などの多層的な意味を被せているのです。文芸評論家の秋山駿の「石」への並外れた偏愛は有名ですが、もちろん秋山駿のこの場合の「石」は人生の隠喩としてのそれです(注2)。また、明恵上人の「島」への偏愛も有名です(注3)。この場合の明恵の「島」も人生の隠喩としてのそれであることは明らかです。そのような隠喩(メタファー)として私はラブレターという言葉を用いているのです。

注1:ウィキペディア「メタファー参照。
注2:ウィキペディア「秋山駿参照。
注3:「紀州が育んだ偉大な明恵上人 島への手紙参照。

第3にラブレターが愛する者に捧げる「恋文」の意味だとして、しかし、愛される者は必ずしも異性とは限りません。「男女二分法・異性愛」という一般世間に流布する視点は、「多様な性」の尊重という現代ジェンダー学の到達点から見れば逆に偏頗な見方でしかありえないことはすでにCML 008970(2011年4月12日付)でも述べていることです。

第4にあなたはくだんの記事のラブレターという表現は「相手の立場からすれば迷惑であり、気持ち悪い」表現であり、「トランスジェンダーの方々にとって最も不愉快」な表現ともいえる、と憶測するのですが、先にくだんの記事の初出の時期を記しておきましたが、この記事はその初出の時期にジェンダー学研究者中心のメーリングリストに最初に発信したものです。そこでの反応はおおむね「田原牧記者のご紹介ありがとうございました。紹介された彼女の著書を取り寄せたいと思っています」というもので、ラブレターという表現に違和を表明する人はひとりもいませんでした。トランスジェンダーの方からも返信をいただきましたが、やはり同様の趣旨での返信でした。

以上、「投稿者の人権感覚を強く疑わせる内容」というあなたの指摘はどのような観点からみても的外れなものだといわなければならないでしょう。

第2のあなたの批判について。批判の第2であなたは東本の論は特異なものと言っていますが、その理由は第5であなたが述べているところのものでしょう。すなわち、あなたは第5で「福島からの避難を勧める主張を共感が得られないと批判する一方で、避難を強調して除染に否定的な立場を批判することは共感が得られなくても価値がある」と東本は主張しているが、その東本の主張は論理的に矛盾している、と言っています。

上記についても2点にわたって反論しておきます。第1に私は「福島からの避難を勧める主張を共感が得られない」などと批判はしていません。左記はあなたの誤読以外のなにものでもありません。私は一貫して「住民の〈避難の権利〉はなによりも第一義的に保証されなければならない性質の〈権利〉というべきものです」と主張しています。私が批判しているのは「避難の権利」のみを主張して福島での「除染」活動全般を否定する論についてです。その際、民主党政府のまやかしの除染政策を批判するのは当然だが、そのまやかしの除染政策と本来ありうべき除染政策とは区別されなければならない。その本来の除染活動を否定してはいけない旨述べています。

第2に「避難を強調して除染に否定的な立場を批判することは共感が得られなくても価値がある」などとも私は言っていません。あなたがこの私が述べたという「共感」云々の発言は、CML 013867(2011年12月26日付)での
「当面『他者の共感を得られる表現』ではないにしても厳しく批判しなければならないことはあります」という私の発言を指してそう言っているのでしょうが、私がここで上記のように言っているのは、やはりあなたの「避難の権利を重視する人々を『脱原発原理主義』とラベリングすることに異常性を感じます。それは決して他者の共感を得られる表現ではありません」(CML 013864 2011年12月25日付)という発言を承けてのもので、「『脱原発原理主義』とラベリングすること」が当面「他者の共感を得られる表現」ではなかったとしても、の意であり、「避難を強調して除染に否定的な立場を批判することは共感が得られなくても」の意ではないことは明らかです。

そして、この場合の「他者」は「脱原発原理主義」と呼ぶに値すると私が考える一部の人を指して「他者」と言っているのであり、その意味するところは、少数の者から「脱原発原理主義」と呼ぶことで当面たとえ共感が得られなくともやむをえないこともある、というものです。私は「避難を強調して除染に否定的な立場を批判すること」が共感が得られない主張だとは思っていません。したがって、この第2のあなたの批判も的外れなものと言っておく必要があります。

なお、補足として言っておけば、「避難を強調して除染に否定的な立場」をとる人に対する批判は少なくない拡がりをみせています。先日私がCMLでご紹介した一橋大学の社会学教員の猪飼周平さんの論もそのひとつですし、古寺多見さんの「原発『リスク厨』とは月とスッポンの猪飼周平氏の論考」というブログ記事もそのひとつといってよいでしょう。なおまた、古寺多見さんは同記事で「脱原発原理主義」という呼び方とはまた違う呼び方で一部の脱原発派の主張を「一部の『脱原発派』の『カルト化』」と名づけています。

第3のあなたの批判について。あなたはまず鳩山元首相を「国民の期待を背負った」元首相であったと評価します。その「国民の期待を背負った」元首相のいる政党とは民主党のことにほかなりませんから、結局のところあなたは民主党という政党そのものも鳩山元首相と同じように「国民の期待を背負った」政党として評価しているとみなして間違いないところでしょう。その「国民の期待を背負った」民主党を「革新政党への票を奪う危険がある」という理由で東本は貶めようとしている。「政治というものに対する根底的な認識不足が為せる業と」いわなければならない、というのがあなたの第3の論点における東本批判です。

しかし、民主党は一定の「国民の期待を背負っ」て政権交代を遂げたことは確かですが、同時に自民党から政権を奪取した直後から次々と「国民の期待」を裏切り続けてきました。

普天間問題公約違反問題、朝鮮人学校の「高校無償化」不適用問題、外国人参政権公約違反問題、夫婦別姓等民法改正公約違反問題、抜け穴だらけの労働者派遣法「改正」問題、米軍思いやり予算非是正問題などなど。現在進行形で脱原発に逆行する原発再稼働、原発推進政策も続行されています。

こうした民主党のていたらくを見て、あなたと同様の主張を展開することの多い石垣敏夫さんでさえ「今の民主党は第2自民党」(CML 014530 2012年1月23日付)にすぎないと匙を投げています。

石垣さんに限らず本CMLでは民主党を評価する人はほとんどいないといってよいでしょう。ただ、その民主党の党員でしかない小沢一郎氏や菅直人氏などを「民主党左翼」としていたずらに評価しようとする向きが一部にありますが、そのことはここでは措いておきます。ともあれ、民主党が現にいまもなお「国民の期待を背負っ」ている政党として評価する人は本CMLではほとんどいないといってよいでしょう。

民主党が「国民の期待」に背離する政策しか持ちえない本質的には保守政党といってよい政党でしかないことを指摘する論攷も数多くあります。ここではその論攷のひとつとしてピープルズ・プラン研究所の武藤一羊さんの「鳩山政権とは何か、どこに立っているのか――自民党レジームの崩壊と民主党の浮遊」(2010年2月16日)という論を紹介しておきます。同論攷で武藤さんは民主党は「自民党レジームからどれほど膨大な負の政治的財産を引き継いだのかを明らかにし、それの清算という困難な仕事に挑戦しようとしない」。「それをしないのは、自民党政権時代につくられた日米関係を変更するつもりがないからである」と、民主党の本質的な保守政党としての限界性を指摘しています。

私の民主党評価の論もいくつかあげておきます。

民主党という政党の正味の評価について革新・刷新派市民・論者の共通項はつくれないものか(上)(弊ブログ 2010年4月27日)
民主党という政党の正味の評価について革新・刷新派市民・論者の共通項はつくれないものか(下)(弊ブログ 2010年4月27日)
■伊藤和子さん(弁護士/ヒューマンライツ・ナウ事務局長)の論攷「沖縄への基地強要は本質的にレイプと同じ」(転載と若干のコメント)(弊ブログ 2011年12月3日)

前記したように鳩山元首相も菅前首相も「国民の期待を背負っ」て登場した宰相であることは一面の事実ですが、その両宰相がその「国民の期待」を見事に裏切った宰相でしかなかったことも下記に少しばかり書いています。

ヤマトゥは沖縄を捨てた 菅新内閣支持率を憤りをもって読む(弊ブログ 2010年6月16日)

以上見てきたように民主党が「国民の期待」を担える政党でないことが明らかである以上、「民主党を貶め」るということではなく、同党が「国民の期待」を裏切ってきたという厳然たる事実に相応して民主党を批判することは、むしろ革新とリベラルを自称する市民としては当然すぎるほど当然な営為といわなければならないでしょう。そして、さらに「国民の期待」を裏切り続けることがもはや明らかというべき同党にいまも一部では続いているいわゆる民主党幻想によって革新票が奪われる危険性があるのであればそれを阻止しようとするのも当然な営為といわなければならないだろうと私は思います。そういう認識がない者にこそ「政治というものに対する根底的な認識不足が為せる業」というセンテンス・パッケージの言葉はふさわしいだろうと私は思います。

あなたの第4の論点である「ある点では共産党を支持し、ある点では社民党を支持することを市民の立場で肯定しながら、ある点では民主党を支持する立場を認めない」という私への批判もまったく当たらない批判であることは上記で述べたことからも明らかです。これ以上の説明は不要でしょう。

あなたの第5の論点についてはすでに第2で反駁していますから繰り返しません。

最後にあなたの第6の論点について。社民党や共産党、また近々結成が予定されている緑の党などの革新勢力間の「票の食い合い」と上記に見たようにいまや保守勢力と定義してよい民主党と革新政党との「票の食い合い」の問題は、真の政治革新、また脱原発政治を実現させることができるかどうかという点でまったく逆方向の関係にある問題群です。その逆方向の問題群を同一方向の問題群として論じようとするのはナンセンス以外のなにものでもありません。あなたの第6の私への批判も的が外れた批判と言わなければならないでしょう。


なべてあなたの私への批判は、ラブレターという一見艶なるものに見える問題にかこつけて見当違いに私の「人権感覚」を問題視しようとする批判のための批判というほかないしろものです。そして、その批判のための批判の近景にある風景はあなたのおためごかしの民主党擁護論再版でしかないということを指摘しておきます。
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