*本エントリは「問われる科学者の責任」(CML 012745 2011年
10月23日)の返信として書かれたものです。

松元さんがご紹介される諸留能興さんは「核エネルギーの平和利用における原子物理学者を始めとする、科学者・学者たちの責任の問題」に関する論攷で戦後日本の左派の原子力論をリードし実践した原子核物理学者の武谷三男を高く評価し、次のように言っています。

「核兵器は絶対悪であり、その廃絶運動に力を注いだ湯川秀樹でさえ、原子力の平和利用そのものに疑いを挟むことはなく、1960年代には原子力委員の核融合専門部会長を務めた。長年湯川秀樹氏の傍にいた慶応大学名誉教授小沼通二も『(湯川先生は)核兵器廃絶の決意は固かったが、原子力政策の批判を聞いたことはない』と証言している。/その点、同じ原子核物理学者でも、『武谷三段論法』で名高い武谷三男氏は『核エネルギーの平和利用は必ずその軍事利用に通じ、両者の区別は出来ない』と明確に指摘した」(CML 012745 2011年10月23日

しかし、その武谷三男にも「だからこそ」の論理(「被爆国だからこその原子力利用」という論理)の陥穽があった、と加納実紀代さん(日本近現代史研究者)が「ヒロシマとフクシマのあいだ」(『インパクション』6月号)という論攷で指摘しています。

加納さんが指摘する武谷の「だからこそ」の論理とは次のようなものでした。

「日本人は原子爆弾を自分の身に受けた世界唯一の被害者であるから、少なくとも原子力に関する限り、もっとも強力な発言の資格がある。原爆で殺された人々の霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも人を殺す原子力研究は一切日本人の手では絶対行わない。そして平和的な原子力の研究は、日本人がこれを行う権利を持っており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなす義務がある」(「日本の原子力研究の方向」『改造』52年11月増刊号)

加納さんは上記の武谷の「だからこそ」の論理が行きつくところについて次のように指摘を続けます。

「被爆国にもかかわらず、ではなく、被爆国だからこその原子力利用だというのだ。この文章は彼の持論『平和・公開・民主』につながるものだが、広島ではこの部分だけが一人歩きする。武谷の言うように、もっとも原子力の被害を受けた国がもっとも恩恵を受けるべきだとすれば、直接被害を受けた広島こそ権利がある。55年1月27日、アメリカのイェーツ下院議員は、広島に原子力発電所を建設するための予算2250万ドルを下院に提案した。前年9月、アメリカを訪問した浜井信三広島市長が働きかけた結果である。浜井はその理由として、『原子力の最初の犠牲都市に原子力の平和利用が行なわれることは、亡き犠牲者への慰霊にもなる。死のための原子力が生のために利用されることに市民は賛成すると思う』と述べている(『中国新聞』55年1月29日)。原爆という悪は、平和利用という善によって償えるという」(同上

ことになってしまう、と。

「『核エネルギーの平和利用は必ずその軍事利用に通じ、両者の区別は出来ない』と明確に指摘した」(諸留氏)武谷も、「原子力の平和利用」という戦後日本の大衆的・啓蒙的「原子力」言説、すなわち「敗戦による荒廃・焼け跡闇市からの『復興の夢』、『遅れた国』日本の『近代化の夢』があり、そこで期待される『科学の力』『文化国家』への希望と信頼」(「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」2011年10月15日)があった当時の「原子力」言説に抗することができなかった〈時代の子〉であったということでしょうか?

しかし、政治学者の加藤哲郎さんは、加納さんの指摘する武谷の言説は「『だからこそ』に尽くされない重層性があ」ったともいえるのではないか、と次のようにも指摘しています。

「戦後日本の左派の原子力論をリードし実践した武谷三男の言説は、『だからこそ』に尽くされない重層性があり、歴史的にも変化します。『民主・自主・公開』は『原子力研究の原則』で『原子力発電には反対』だったという解釈も成り立ちます。たとえば『原子力とマルクス主義』という論文があり、ソ連の科学技術発展に理論的希望を見いだしながらも(『社会』1948年8月号、『武谷三男著作集』4)、実際にソ連で原子力発電が出発し、日本でも Atoms for Peace から原発導入に入る頃には、「原水爆時代から原子力時代へ」という論理で、未だ技術的には未成熟で「原子力時代」にはほど遠いという実践的批判の立場を貫きます(「『原子力時代』への考え方」『エコノミスト』1955年9月、『武谷三男現代論集』1)。当時の「原子力時代」礼賛論への批判です。」(同上

いずれにしても戦後日本の(加藤哲郎さんは「1954ー55年に原水爆禁止運動と「原子力の平和利用」を同時出発させる戦後日本の心性の両義性の原型は、どうやら戦前からマンハッタン計画まで遡りそうです」と言っています)科学者から市民にいたるまでの大衆的・啓蒙的「原子力」言説の研究はまだ端緒についたばかりです。その端緒についたばかりの戦後日本の「原子力」言説の研究について朝日新聞が次のような記事を書いています。その記事をご紹介させていただいて返信のような、返信のようでもないこの記事をしめくくりたいと思います。


被爆国になぜ原発? 問われる「だからこそ」の論理(朝日新聞 2011年8月3日)

 原爆の被爆国はなぜ原発大国になったのか。福島第一原発の事故を機に、二つの「核」が日本の近代史でどのようにかかわり合ってきたかについての考察が、論壇に登場し始めている。浮上してきた焦点の一つは、被爆国“だからこそ”の論理だ。

 「ヒロシマの遺産がある国で、なぜ簡単に原発を許したのか」。7月23日放映の「朝まで生テレビ!」で、イタリア人ジャーナリストのピオ・デミリアさんが問いかけた。戦前に生まれ、戦後に草創期から原子力開発を担ってきた石川迪夫さん(日本原子力技術協会最高顧問)は、次のように回答した。

 私たちの世代では広島と長崎で原爆を受けた人に原子力の研究者が多いのです。みな「平和利用で」「人が生きる道に使うんだ」ということで原子力に取り組んだのです、と。

 被爆経験が“あったにもかかわらず”原子力を推進したのではなく、むしろ“あったからこそ”進めたのだ、という説明だろう。

 女性史研究者の加納実紀代さんは、「平和利用」の主要論者だった故・武谷三男の言説に「だからこそ」の論理を見いだした(インパクション6月)。日本人は原爆の唯一の被害者だから、平和な原子力を研究する権利を最も持つ。「改造」増刊号(1952年11月)で武谷はそう論じていた。

◆根底に救いと復讐心

 “だからこそ”の論理が広がりを持った背景に、どんな心理があったのか。広島平和研究所の田中利幸さんは世界8月号で説いた。「傷つけられた被爆者だからこそ、『貴方(あなた)たちの命を奪ったものが、実は、癌(がん)を治療するのに役立つのみならず、強大な生命力を与えるエネルギー源でもある』というスローガンは、ある種の『救い』のメッセージとして受けとめられた」

 異なる心理を指摘する論者もいた。評論家の片山杜秀さんは新潮45の6月号で、平和利用の底層には「草の根の復讐(ふくしゅう)心」があったと述べた。核爆弾を使った米国への「恨み」を、同じ核を上手に利用することで果たすこと。「科学で敗れた戦争なら科学で見返そう」である。これも一種の“だからこそ”論だろう。

 原発の「安全神話」が強く信じられてきた日本。神話の起源に“だからこそ”を見たのは歴史学の中嶋久人さんだ。福島第一原発の、ある設置過程に着目する(現代思想6月号)。

 原発は「原子爆弾と同じように危険」だと不安がる現地住民に、東電のある社員はこう語って賛同を得たという。自分は原爆を目撃し兄を原爆で失った、だから皆さん以上に核の恐ろしさを知っている、肉親を失った私は少しでも不安があれば会社の方針とはいえ従わない……。

 「被爆国ゆえに」住民からも現場社員からも、より強い安全神話が必要とされる。そんな日本独特の歴史事情があったのではないかと中嶋さんは示唆した。

 福島にとって原子力とは何だったかを考察し話題を呼んでいる開沼博さん(社会学研究者)の著書『「フクシマ」論』。本では原子力を、「近代の先端」をイメージさせるものと描いていた。

 では、原爆と原発を貫くものは何か。開沼さんは「近代の先端とは、戦争と成長の輝かしさです」と語った。「経済的繁栄や民主化といった成長の輝かしさ、『ファシズムからの解放』『アジアの解放』といった戦争の輝かしさ。それぞれが近代的な理想であり、だから人々は原発と原爆に圧倒的な近代性を見た」

 広島、長崎の被爆者がつくる日本原水爆被害者団体協議会は3・11後の今夏、全原発を順に廃炉にするよう求める明確な「脱原発」方針を決めた。56年の結成以来、原発ゼロ社会を求めてはこなかった組織の、大きな転換だった。

 “だからこそ”の論理を含みこまずには始められなかった日本の原発史。その複雑な実像に迫るためには、高度成長や米国の核戦略を含めた近代史の包括的な再検証が必要だろう。(塩倉裕)

◆原子力の平和利用 
 1953年にアイゼンハワー米大統領が国連で表明した新方針。核技術を米が独占できなくなった状況を受け、医療や発電など原子力の平和的な利用を国際的に進める方向へ転換した。日本での原子力推進が加速するきっかけになった。
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