鉢呂元経産相の「死の町」発言での辞任は言葉狩りではないか、という批判があります。

そうした批判の例として次の3本の記事もしくは意見をあげておきます。

「杉浦ひとみの瞳」(2011年9月11日)ブログ中の勝見貴弘氏(元国会議員秘書)の意見
■鉢呂氏辞任は脱原発議員に対するいじめにしか見えない(Afternoon Cafe 2011年9月11日
■鉢呂経産相辞任 記者クラブに言葉狩りされて(田中龍作ジャーナル 2011年9月11日

毎日新聞(2011年9月9日付)の報道によれば、くだんの鉢呂元経産相の「死の町」発言とは次のようなものです。
 
鉢呂吉雄経済産業相は9日の閣議後会見で、野田佳彦首相に同行して8日に東京電力福島第1原発などを視察した際の印象について「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」と述べた。(略)会見では、事故現場で収束作業に当たる作業員らについて「予想以上に前向きで明るく、活力を持って取り組んでいる」と印象を語り、放射性物質の除染対策に関しては「政府として全面的にバックアップしたい」』とも述べた。

鉢呂元経産相が上記の発言をどのような順序で述べたのかはわかりませんが、この発言を整合的に並べ替えれば次のような発言になります。
 
鉢呂吉雄経済産業相は9日の閣議後会見で、野田佳彦首相に同行して8日に東京電力福島第1原発などを視察した際の印象について「事故現場で復旧に当たっている作業員は予想以上に前向きで活力を持って取り組んでいる。残念ながら、周辺の町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした。(放射性物質の除染対策に関しては)政府として全面的にバックアップしたい」とも述べた。

上記の鉢呂元経産相発言にはまったく失当性はありません。「死の町」という形容は、本来、市街地という繁華な町でありながら「人っ子一人いない」状況をそう表現したのであって、その表現には差別性も蔑みもありません。その発言をなにか問題でもあるかのように報道するメディアの報道姿勢は田中龍作記者が糾弾するように「言葉狩り」というほかないものだと私も思います。

鉢呂元経産相のもうひとつの「放射能すりつけてやる」発言のメディアの一斉報道についてはメディアの側に次のような事情があったようです。

「(鉢呂元経産相の)囲み取材の現場にいた共同通信の記者によると、東京電力福島第1原発の周辺地域視察などを終えた鉢呂氏が議員宿舎に戻ったのは8日午後11時半ごろ。防災服のままだった。帰宅を待っていた記者約10人に囲まれた。/視察の説明をしようとしながら鉢呂氏が突然、記者の一人にすり寄り、『放射能をうつしてやる』という趣旨の発言をした」。しかし、オフレコ会見ということもあり直後には報道しなかった。が、「鉢呂氏は翌9日午前の記者会見で『残念ながら(福島第1原発の)周辺市町村の市街地は人っ子一人いない『死の町』だった』と発言。午後にあらためて記者会見し撤回した。9日夕、テレビのニュース番組が『死の町発言』とともに8日夜の放射能発言も報じた」。そこでおおかたのメディアは「「『死の町』発言で、原発事故対策を担う閣僚としての鉢呂経産相の資質に疑義が生じたことで、前夜の囲み取材での言動についても報道するべきだと判断した。」(中国新聞 2011年9月9日

上記に見るとおり、メディアが「放射能すりつけてやる」というオフレコ発言(私はその発言が事実だとしても冗談だと思っていますが。しかし、また冗談にしてもいかにも低級な冗談だとも思っていますが)を報道するにいたった背景には、先に「死の町」発言を問題化し、政局化させたいたとするメディア・フレーム(メディア独自の切り口)やメディア・スクラム(必要以上の報道合戦)的視点が大いに関係しています。しかし、メディアが問題とする「死の町」発言は上記で見たとおり「言葉狩り」というほかないものである以上、そのメディア・フレームは偏見そのものだったというべきです。「鉢呂氏は『言葉狩り』の犠牲者」(田中記者)である、というのは私の見方でもあります。

一方、いま、「たかじんのそこまで言って委員会」(読売テレビ系列・大阪市)の9月4日放送で「(東北の野菜や牛肉は)健康を害しますからできるだけ捨ててもらいたい」「いま生産するのが間違っている。きれいになってから生産しないと」「畑に青酸カリが撒かれた(ようなものだ)と。青酸カリを除けてから植えてください」などと述べた中部大の武田邦彦教授の発言がやはり言葉の問題として問題になっています

この武田氏の発言については脱原発論者の中に擁護論が多いのですが、そして、私もその発言の総体を見て、武田氏は論理としては正論を述べているとは思うのですが、しかし大きな違和が残ります。

それは、武田氏の発言は、結局のところ、いまなお被災地に住まって辛艱しながら「農作」をしている東北の農民、また住民の心情に思いを馳せることができない長く原発村の住民でもあった象牙の塔の人の発言でしかないと思えるからです。ひとことで言って武田氏の発言には他者を思いやる精神が見られません。武田氏は「(東北の野菜や牛肉は)健康を害しますからできるだけ捨ててもらいたい」と言う前に東北の人たちの心情に思いを馳せる必要があったでしょう。そして、農民に農民の命である「農業を捨てよ」というからには、その農民切り捨ての残酷な言葉に見合うだけのもっと丁寧な低線量被曝についての説明の言葉が必要だった、と私は思います。

同じことでもたとえば小出裕章氏ならば次のように言うでしょう。

放射線被曝はどんなに微量でも危険です。(そういう意味で食品の放射性物質の基準値はまったく意味がありません。どこまでで安全なのかどこまでで危険なのかということで線を引くのはサイエンスの側から言えばできません。それは社会的に、そこまでなら我慢ができるか、あるいは我慢をさせるしかないかというそれだけの線引き(にすぎないの)です。

しかし、3月11日で世界が変わってしまいました。もうどうしようもないことなんです。その日本という国で生きる限りはそういう基準を受入れなければ福島県が失われてしまうというそういう状態におちいっているということです。

これはあまりいいたくないけれども、(法令の範囲内で)福島でとれるものは多分無いと思います。しかしながら福島の生産者の方々を守らねばならない。必ず守らなけれないけない。(MBS(毎日放送)ラジオ「たね蒔きジャーナル」 2011年7月12日放送

小出氏の「食べ物への汚染は永遠につづく。今、私たち大人に残された選択肢とは、(子どもを守るために、そして、福島の生産者の方々を守るためにも)“食べる”ことだ」(『週刊金曜日』 2011年6月10日号)という発言は上記のような認識からきているのでしょう。いま私がここで述べようとしているのは、上記の小出氏の認識に賛成するとか、賛成しないとかという問題ではありません。「田畑を耕すこと=農民の生」であるところの農業者の辛艱をどのように想像力を働かせて思いやることができるかという共感力の問題です。武田氏の発言にはその共感力、他者を思いやる精神が見られないのです。私はこれは思想の貧困の問題、あるいは思想の薄弱性の問題、またあるいは思想の低劣さの問題だろうと思っています。武田氏はせっかく原発容認論から脱原発論に改心した原発研究者ですが、武田氏の思想の核にはいまだ原発村の「思想」が残存している。それが論理で農民を切り捨てて、論理で切り捨てられる者の痛さ、辛さを思いやることのできない彼の思想の弱さである、というのが私の武田氏評価です。

私がここで言いたいことは、言葉狩りと思想の薄弱性ないしは低劣さのみが際立つ言葉批判とは違う、ということです。思想の薄弱性を疑うことができない者は言葉狩りの愚かさについても批判の視点は持ちえないだろう、ということでもあります。
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