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先にエントリした【1】の標題記事についておふたりの方から要旨〈香山さんなど『良心的ジャーナリスト』は、新聞・ラジオなどでの影響力が強いのですから、不用意な論争によって向こう側に追いやってしまうのは、この時期、反(脱)原発のためにはまずいと思います〉というある種反論のコメントがありました。

下記は、そのコメントへの私の再反論的返信です。先の記事の補論としてエントリしておこうと思います。

Tさん Hさん

おっしゃっておられることの半ばは同意できるのですが、おふたりのご意見に同意しかねるところが私には残ります。

その同意しかねる点とはなにか、という点について、今回の話題の焦点になっている(私が話題にしたわけですが)香山リカさんを例にして述べてみます。

香山さんが一定の「革新」的スタンスの歩をとっていることは私も承知しています。彼女は「九条の会」とともに9条改悪反対のキャンペーンを張っている「憲法行脚の会」の呼びかけ人のひとりでもありますし、前々回の東京都知事選の際は永六輔や中山千夏、辛淑玉らとともに石原都政反対ののろしを上げる「シロウと大江戸勝手連」の呼びかけ人のひとりでもありました。

しかし一方で私は、この十数年ほどの間、彼女がテレビの娯楽番組や新聞や雑誌の自著記事、インタビューなどでなんとも軽薄なコメントをしている姿を何度も目撃してきたような気もしています。日常のどこにでもあるありふれた平凡な見解(「平凡」自体はすばらしいことですが)にすぎないものを「精神科医」という〈権威〉を衒っていかにも大きく見せるというたぐいのことを。

このことを東京造形大学教授の前田朗氏はいつか次のように語っていたことがあります。

香山リカ『しがみつかない生き方--「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』(幻冬舎新書、2009年)――(略)本書の結論は「ふつうにがんばって、しがみつかずにこだわらずに自分のペースで生きていけば、誰でもそれなりに幸せを感じながら人生を送れる。それで十分、というよりそれ以外の何が必要であろうか」です。賛成です。もっとも、この結論を引き出すために、本書の中で何度も何度も「25年間、精神科医として、診察室で・・・」と繰り返している意味がわかりません。臨床実務を続けていることを強調したいのでしょうが、内容・結論と精神医学の間に何かの関係があるとは思えません。学問ですよ、ってどうしても言いたいのかな。(略)ともあれ、私は30年以上前から同じ結論に達していました。お金に嫌われて、しがみつく暇もなかったし(笑)。(グランサコネ通信2010-08 前田朗ブログ 平成22年3月1日)

私には上記で前田氏が指摘するような香山さんに対する違和があります。

その私の香山さんに対する違和は、在日の批評家の金光翔氏が『週刊金曜日』を批判していう「護憲派のポピュリズム化」ということとおそらく同じ性質のもののように私は思っています。


金光翔氏は「護憲派のポピュリズム化」について次のように言います。

また、何か事件があった際に、(『金曜日』が)専門家ではない有名人や文化人にコメントを求める傾向も、この頃から顕著になりはじめるように思われる。便宜上、この傾向を『護憲派のポピュリズム化』と呼んでおこう。例えば、この時期にライブドア事件が起こっているが、そこで「二人の識者」としてコメントが求められているのは、高村薫と香山リカである(「ライブドア事件をどう読み解くか」『金曜日』二〇〇六年二月三日号)。この後、香山リカは、『金曜日』誌面に頻繁に登場するようになる。こうした「護憲派のポピュリズム化」の中に、「護憲」や「平和」について有名人や文化人のメッセージを求める傾向、広告的なキャッチコピーによる「わかりやすい」護憲のメッセージを打ち出していこうという傾向を加えてもいいだろう。こうした傾向が相まって、現在の『金曜日』の、誰に読まれたいのか分からない、ぬるい誌面が構成されていると思われる。」(金光翔「佐藤優現象>批判」注:24)

金光翔氏のいう「護憲派のポピュリズム化」がたとえばこの2、3年の間に限ってみても私たちの国の政治にどのような事態をもたらしているか。自民党に変わる民主党の政権交代をもたらしたことはプラスの側面として評価してよいことですが、あれだけ国民と沖縄県民に約束した普天間の県外移設の公約を反故にし沖縄県民を愚弄することも甚だしい「辺野古回帰」の日米合意を踏襲する姿勢を明らかにした鳩山内閣、菅内閣、そしていまの野田内閣のもとでもその民主党政権をあたかも「革新」の砦かのように擁護し(菅内閣支持論、小沢内閣待望論などその形態は一様ではありませんが)、菅内閣の実質原発容認政策でしかない「減原発」路線を「脱原発」路線であるかのように言い繕い、支持する(「脱原発」を声高に唱える反原発論者を自称する人の中にそうした主張をする人が少なくありません。いや、私の見るところ相当多数いますしかし、彼ら、彼女たちの多くはその自己の論理の〈自己撞着〉ないしは〈論理矛盾〉に気ずいていないようです。ここにも「護憲派のポピュリズム化」の悲しいまでの悪しき影響を私は見ます)。そうしたポピュリズムにとりつかれた中間層的保守主義ともいえる国民思潮を多く生み出すことに貢献してしまったということはいえませんか? 「みんなの党」的保守政党の近時の躍進もこうした「護憲派のポピュリズム化」がもたらした鬼子のように私には見えます。

こうした思潮に抗することなしにはたとえば私たち国民の喫緊の課題としての「脱原発」にしても、私は絵に描いたモチにしかなりえないように思えるのです。「減原発」路線が真だとしても、その「減原発」が終了するのは計算のしかたにもよりますが現原発のすべてが老朽化する20年も30年も先のことです(もっと先に伸びるかもしれません)。その間にもう一度福島第1原発事故クラスの原発事故が起きればそのときは私たちの国はほとんどおしまいです。そうではありませんか? いま私たちは「護憲派のポピュリズム化」のもたらす思潮のおそるべき保守化についてもっと論を凝らしてしかるべきだと私は思うのです。

私の「香山リカ」批判はこうした私の「護憲派のポピュリズム化」に抗するという考え方の延長にあるものです。

それに先に批判した香山さんの論説は、仮に彼女の立場が文言どおりの中立の立場であったとしても、そうであれば彼女の批判の刃は「原発容認派」「脱原発派」のどちらをも斬りつける体のものになっているわけですから、「洗脳」「ドグマ」などと中傷する彼女の批判は反原発論者に対しても当然向けられているものということになります。反原発論者の論を「洗脳」「ドグマ」などと中傷する彼女の論理は的外れである、とやはり反批判しておくべき性質のものであろうと私は思います。
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