香山リカが「精神科医」というレッテルを笠に着て幼稚な論理をふりかざしています。香山は卑怯にも非明示的(あいまい)な形でしか述べていませんが、香山が下記の記事で使う「洗脳」や「ドグマ」という言葉は反・脱原発論者に対して向けられたものであることはコンテクストの流れから見て明らかです。

私は日経BP社が発行する「復興ニッポン」というメールマガジンを資料として購読しているのですが、そのマガジンの9月1日付けに香山は下記のような記事を書いています。

■香山リカ:実の姉妹が「被災地支援の海産物」で大もめ ――原発事故「ストレス三重苦」が生む「洗脳寸前ジャパン」(復興ニッポン  2011年9月1日

記事の全文は上記サイトで確認していただきたいのですが、香山の論は以下のようなものです(資料として記事の下欄に転載しておきます)。

まず香山は彼女のいう原発事故の「ストレス三重苦」現象の一例として「京都の五山送り火」に関する友だち同士の議論で「親しい人と決裂してしまった」人の例とボランティアとして被災地に行き、被災地支援のためと思って同地の名産の海産物(もちろん放射能に汚染されていない)を買い、その名産を送ろうと姉に電話したところ激しく拒絶されてしまった妹の例を挙げます。一方の例では友だち同士は口論した挙句「気まずい雰囲気がいつまでも続き、『もう会わない』ということになり、もう一方の例では姉に「怒鳴」られ「罵られ」た妹は「『姉にはもうしばらく連絡したくありません』と、うつむいてしま」います。

しかし、どちらとも極端な例だといえないでしょうか? ふつう「親しい人」同士であれば多少の議論はあったとしても、そして片方の側または両者にその議論に納得しがたいものが残っていたとしても、「決裂してしま」うまでにはいたらないでしょう。議論を超えて相手の人となりや人格を愛するところに「親しい」という関係が生まれるはずだからです。また、姉なり妹なりが被災地にボランティアに出かけ、その一報を姉、または妹が聞いてはじめに出る言葉はこれもふつうの場合「大変だったわね。で、どうだった?」というようなねぎらいの言葉だというべきではないでしょうか(香山自身が「心の余裕がないから関係が荒れる」の項で述べているように)。震災の影響での「二重苦」「三重苦」、また彼女のいう「ストレス三重苦」が重なっていたとしても人の人格、あるいはもの言いというものはその程度(というと、語弊がありますが)のことで変わるものではありません。「やりとりがすぐ感情的になり、ついには『相手の人間性まで非難し合う』といった展開になる」のを震災による「ストレス三重苦」の影響のようにいうのは、彼女は「精神科医」という肩書きにもかかわらず、本質のところで人の心の動きをよく観察しえていない人だからだと私は思います。あるいは彼女の心の中には本質的な「人間不信」の感情が隠されているのかもしれません。

そうした「精神科医」とは名ばかりの自己の主観的な観測でしかない(と、私には思える)極端な例を持ち出して、香山は、「全国でこのような『ぎくしゃく』が、大きな組織や集団といったレベルから、家族や恋人といった小さな集団まで、さまざまな段階で起きている可能性がある」、さらに「私たち日本人は、ほぼ全員が大きなストレスを背負い込んでいるといえる」と自己流の論を拡張させます。

さらに香山は、「大きなレベルから小さなレベルまで、次々に『仲間割れ』が起きている」という珍妙な診断をくだした上で、そうした「仲間割れ」が起きる原因は「心のエネルギーが目減りしすぎてしまうと、思考力や判断力が衰退してしまい、『ドグマ』的な断言口調の意見をそのまま受け入れてしまう性質が、人間には備わっている」ためだ。そして唐突に「ここまで行くと、洗脳だ」、といったい誰が誰のためにする「洗脳」というのかまったく意味不明の論を展開します。

そうして香山は、「結果、『安全だ』『危険です』と断定を繰り返す専門家を全面的に信頼し、ほかの人の言うことにはいっさい耳を貸さなくなったりもする」。「先の『ドグマに頼りたい』という人間の一般的な性質が関係している可能性はないだろうか」。「心の視野が狭まって仲間割れに到ったりドグマに走ったりすることだけは、なんとしても避けなければならない。自分も危険だし、社会的にも危険だ」と結論して論を締めくくります。

上記で香山が「洗脳」と言い、「ドグマ」と言うのは、周到に断言するのは避けて、香山はあたかも中立を装っていますが、その批判は、反・脱原発論者に対してのものであることはここまで読み進めてくるともはや明らかというべきでしょう。「洗脳寸前ジャパン」という標題も彼女(あるいは編集者)の意図するところをよく示しえています。もちろん、「復興ニッポン」という媒体も胡散臭さふんぷんです。

資料:
■香山リカ:実の姉妹が「被災地支援の海産物」で大もめ ――原発事故「ストレス三重苦」が生む「洗脳寸前ジャパン」(復興ニッポン  2011年9月1日

京都の送り火「是非」で人間関係「破綻」

 最近、診察室で、あるいは身のまわりで、「親しい人と決裂してしまった」という話をやたらと耳にする。きっかけはいろいろだが、原発事故による放射性物質の問題に対するスタンスが関係がしている場合が少なくない。

 わかりやすい例を挙げれば、先日、大きな問題になった「京都の五山送り火」。

 その件を話しているうち、ひとりは「陸前高田で松を集めた人が気の毒。京都も燃やしてあげればいいじゃない」と言い、ひとりは「なに言ってるんだ。放射性物質が飛散することになったらどうするつもりか」と主張する。

 他の話題であれば「まあ、いろいろな考え方があるよね」と違いを認め合ったまま話が終わるところだが、この件に関してはお互い譲ろうとしない。

 しかしいくら議論したところで、科学的知識が互いに欠如している場合、「危険なのか、そうでもないのか」という問いに対する答えが出てくるわけでもない。

 その結果、気まずい雰囲気がいつまでも続き、「もう会わない」ということにもなる。

被災地支援の海産物を「激しく拒否」

 被災地にボランティアに出かけ、名産の海産物などを送ろうと姉に電話したところ、激しく拒絶された、という話をしてくれた人もいた。

 姉は「あなたいったい、なに考えてるの? ウチには小さな子どももいるのよ!」と怒鳴ったそうだ。

 この話をしてくれた女性は、こう続けた。

 「たしかに子どものことを心配する気持ちはわかるのですが、そこは原発からもかなり離れていて、海産物からも放射性物質は検出されていないんです。それに私は被災地支援の意味も込めて現地のものを購入しているのに、非常識な人間であるかのように罵られる。もしかしたら非常識なのは向こうのほうじゃないですかね」

 その人は「姉にはもうしばらく連絡したくありません」と、うつむいてしまった。

原発事故で「ストレス三重苦」状態に

 「どちらが悪い」の問題ではない。

 全国でこのような「ぎくしゃく」が、大きな組織や集団といったレベルから、家族や恋人といった小さな集団まで、さまざまな段階で起きている可能性がある。

 東日本大震災のような巨大災害、そして原発事故による放射性物質は、人間の心にも大きな影響を与える。

 今回の原発事故は多くの人にとって、「放射能が目に見えない」「事故収束はいつになるかわからない」に加え、「誰が言っていることが真実かわからない」という性質がある。

 このため人々は「ストレスの三重苦状態」に追い込まれる。

 反原発とか原発推進など、個人的な主張や立場に関係なく、311以降、このニュースに日々晒されている私たち日本人は、ほぼ全員が大きなストレスを背負い込んでいるといえる。

 おそらく、心の視野も否応なくかなり狭くなっているだろう。

心の余裕がないから関係が荒れる

 たとえば、先ほどの姉妹のケースを考えてみよう。同じ結果に導くとしても、本来ならもっと違ったやり取りにすることはできたはずだ。

 「海産物、送ろうか?」

 「ボランティアお疲れさま。現地のものを購入して被災地を励ましたいのね。でも、安全性がはっきりするまではね」

 「そうか、小さな子どももいるものね」

 「ごめんね。はっきりしたらどんどん頼むから。連絡ありがとう」

 「うん、お姉さんも気をつけて」

 ――そうやって、お互いの気持ちを尊重し、意見は違っていても絆を強めることもできたはず。

 それなのにやりとりがすぐ感情的になり、ついには「相手の人間性まで非難し合う」といった展開になるのは、互いが心の余裕をかなり失っている証拠と言えるだろう。

心のエネルギーが枯渇すると危険

 大きなレベルから小さなレベルまで、次々に「仲間割れ」が起きている。

 「あの人の態度はちょっと神経質すぎるのでは」「どうしてあそこまで無頓着なのか理解できない」と互いを批判し、相手を論破するためのデータ集めに「必死になる」。――これは「批判」自体が目的化しているわけで、不毛だ。

 そもそも、「○○派」などと派閥に分かれたかのようになって敵対し合っているうちに、地震や津波の被害を受けて苦しんでいる人たちのことが忘れ去られるというのは、なんとしても避けなければならない。

 心のエネルギーが目減りしすぎてしまうと、思考力や判断力が衰退してしまい、「ドグマ」的な断言口調の意見をそのまま受け入れてしまう性質が、人間には備わっている。

 ここまで行くと、洗脳だ。

自分も社会も危険になる「心のエネルギー枯渇」

 こういう心理状況になると、「もっとはっきり言ってくれる人はいないか」という気持ちになる。

 結果、「安全だ」「危険です」と断定を繰り返す専門家を全面的に信頼し、ほかの人の言うことにはいっさい耳を貸さなくなったりもする。

 実際、周囲を見ている限り、「今の時点では、こうと推測できないこともない」「まだなんとも言えない」といった言い方をする科学者に対し、「ウソつきだ」と決めつける類の人が、どうにも増えている。

 先の「ドグマに頼りたい」という人間の一般的な性質が関係している可能性はないだろうか。

 ――正確な情報を集めて、いちばん妥当な判断をする。

 その能力を失わないためにも、自分の心のエネルギーを重視しよう。それが目減りし、心の視野が狭まって仲間割れに到ったりドグマに走ったりすることだけは、なんとしても避けなければならない。自分も危険だし、社会的にも危険だ。

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