キョウ へんみよう28

Blog「みずき」:辺見庸は「資本は何でもするし、それにはうち勝ちがたいけれども、しかし『人間であるがゆえの恥辱』というものがあるじゃないか」、と憤る。しかし、また、「恥辱」について、「ややあって女性は言いました。『セーキは自分で洗いますか?』自分、のグラスは自分で洗いたいですか、といった調子の、媚びるでも強いるでもふざけるでもない、ただ生真面目な問いなのでした。(……)恥辱をぼくは豪も感じませんでした。むしろ好感したのです。なぜでしょうか?たぶん、ぼくが想定するエクリチュールとしての言語表出の次元をさらりと超えていて、なおほっこりと人間的だったからでしょう。でも、同じ言葉を違う人物が異なる場面で語ってもだめなのかもしれません。ついでに言えば、彼女は日に何人もの障害者らを洗っています。恐らく、信じられないほどの安い給料で」とも書く。自身が死に際にあったときも資本のこと、すなわち、「信じられないほどの安い給料」の不平等の問題、不平等の悲しさの問題を忘れていない。忘れられはしないのだ。それは人間の証明というべきではないか。

【山中人間話目次】
・ジル・ドゥルーズと辺見庸の人間であるがゆえの恥辱を、まったくとるにたりない状況で、強く実感させられること
・「人間であるがゆえの恥辱」は手近の日常生活のなかにいくらでも埋まっているようです。それを人として恥とするかどうかが、より深く考え、何かを拒むことへの出発点にはあるのかもしれません
・辺見庸の大道寺将司、終刊前の「キタコブシ」177号のことなど
・阿部治平さん(青海省青海師範大学講師など歴任)の中共、習近平批判(続)――中国にも「正論」はある、ただ民衆のものになっていないだけだ(リベラル21 2017・08・20)
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