キョウ ながいかふう
永井荷風が絶命した部屋。買い物かごと下駄と傘は実際に荷風が愛用した



キョウ ながいかふう2
浅草のロック座で踊り子にはさまれてご満悦の荷風


キョウ ながいかふう3
書斎に寝かされた荷風の遺骸



キョウ ながいかふう4
葛飾八幡宮


キョウ ながいかふう5
白幡天神社に立つ荷風の歌碑



キョウ ながいかふう6
カツ丼、上新香、日本酒1合の大黒家「荷風セット」



キョウ ながいかふう7 


(みちのものがたり)荷風ノ散歩道 千葉県 万年床の書斎兼寝室兼居間 - 朝日新聞デジタル 2017年3月25日
http://www.asahi.com/articles/DA3S12855560.html
 
いたるところ茶色味がかった、その部屋には、かつて、ひとり身の老作家の全生活が凝集されていた。
 
広さは6畳。いまも使われている人家の一室だが、そこだけ時間が静止している。
 
千葉県市川市の京成八幡(やわた)駅のもよりにある、その家は、永井荷風(かふう)(1879~1959)が最晩年に建てた。敗戦の翌年から市川で暮らし、市内で3度の転居をへて、たどり着いた終(つい)のすみかである。
 
実子のいなかった荷風の没後、いとこの次男で、戦時中に養子になっていた永井永光(ひさみつ)さん(2012年没、享年79)が相続し、遺品を守りながら住んでいた。元は小ぶりな木造平屋だったので増改築はしたものの、その6畳間だけは手がつけられていない。
 
裸電球がぶら下がり、つくりつけの書棚がある、その部屋に、荷風は万年床を敷き、書斎兼寝室兼居間にした。身の回りの物は手の届く範囲に置かれ、余計な身動きをせずに事足りた。そこにいる限り満ちたりていられるシェルターのような居場所だった。
 
その家と目と鼻の先にある食堂「大黒家(だいこくや)」おかみの増山孝子さん(82)は、おそらく荷風が、生涯の最後に言葉をかわした人だろう。
 
大黒家を行きつけにした荷風は、たいてい昼過ぎに、背広を着て現れ、同じ席に座り、かならずカツ丼と上新香、銚子1本を頼んだ。
 
増山さんが記憶をたぐる。
 
「亡くなる前日は夕方に来られましたが、ぜえぜえと息づかいが荒かったので、『大丈夫ですか?』と声をかけたほどでした。でも、カツ丼は残さず召し上がりましたよ」
 
1959年4月30日未明、荷風は自室で息をひきとった。胃潰瘍(かいよう)の吐血による心臓まひが死因とされた。
 
作家の半藤一利さん(86)は当時、週刊文春の記者だった。「荷風死す」の一報を聞いて取材に駆けつけ、臨終の姿のままの荷風と対面した。
 
なきがらは背広姿で、万年床から半身を乗りだし、うつぶせで倒れていた。机の上には、眼鏡のかたわらに、フランス語の原書が開かれたまま置かれていた。
 
 
じつは半藤さんは、学生時代から、生前の荷風を、たびたび浅草で見かけていた。
 
荷風は戦後、ひたすら浅草通いにのめりこんでいた。日記『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』には、連日のように、「正午浅草」と書きしるされている。
 
荷風にとって、「淫蕩(いんとう)無頼」な人びとがたむろする浅草は、猥雑(わいざつ)な哀愁漂う別天地だったと半藤さんはいう。お目当てはストリップ劇場の楽屋だ。「ニフウ先生」と呼ばれながら踊り子とたわむれ、興が乗れば食事に誘った。
 
「戦後の荷風さんは、家はあっても、風狂の徒(と)、永遠のホームレスたらんとする心境だった。『偏奇館(へんきかん)』を失ったとき、とっくに人生に見切りをつけていたと推察します」
 
大正時代、2度の離婚の後、慶大教授の職を辞した荷風は、東京の麻布にペンキ塗り2階建ての洋館を建て、偏奇館と呼んだ。そこが文学と放蕩(ほうとう)の悦楽を味わいつくす孤独なアジトとなっていた。
 
45年3月10日、東京大空襲で、万巻の蔵書もろとも焼け落ちてしまうまでは。
 
■「冬の蠅」の境地だったか
 
《三月九日。天気快晴。夜半空襲あり。翌暁(よくぎょう)四時わが偏奇館焼亡(しょうぼう)す》(『断腸亭日乗』)
 
かくして荷風、65歳にして無一物の避難民となる。
 
しかも、不運には手加減がなかった。交友のあった作曲家が住む東中野のアパートに身を寄せると、そこも空襲で焼失。さらに、疎開先の兵庫県明石市と岡山市でも、たて続けに空襲に見まわれた。
 
恐怖におののき、命をつなぐのが精いっぱいのありさまで、敗戦の日を迎えたのだ。
 
《六十前後に死せざりしはこの上もなき不幸なりき。老朽餓死の行末思へば身の毛もよだつばかりなり》
 
元日付の『日乗』でそう嘆いてみせた46年1月、市川へ移り住んだ。しかし最初は、長唄の師匠、杵屋五叟(きねやごそう)(1906~57)の一家との同居だった。五叟の本名は大島一雄。永光さんの実父である。
 
荷風は、五叟とは気が合った。だが、偏奇館での隠棲(いんせい)に慣れ親しんだ身で、ひとつ屋根の下で他人と一緒に安穏と暮らせるわけがなかった。
 
五叟が苦労して見つけだした借家で8畳間をひとり占めした荷風は、長唄の稽古の三味線やラジオの音を異常なほど忌み嫌った。室内は土足で歩き回り、七輪を持ちこんで自炊するので、畳は焼け焦げだらけになった。縁側から、ためらいもなく放尿もした。
 
そんな奇行の数々で五叟を悩ませた揚げ句、1年後に、ぷいと出て行ってしまう。
 
引っ越し先は、さほど離れていない、仏文学者、小西茂也(1909~55)の屋敷だった。人づての紹介で、10畳の客間を借りられたのだ。
 
バルザックなどの翻訳を手がけていた小西は、荷風との同居に心躍らせたという。だが、約2年後、敬愛していた大作家に立ち退きを迫り、追い出してしまった。
 
小西の娘婿の秋山征夫さん(72)によると、小西は、ノートに「荷風先生言行録」と題した日記をつけていた。そのノートは小西の手で焼かれてしまったが、14年前、仏壇の裏から、下書きと思われるメモ帳が見つかったという。
 
荷風が引き払った48年12月28日の日付で書かれていたのは、たったこれだけ。「荷風引越(ひっこし)せり。大バカもの」
 
秋山さんは、こう語る。
 
「小西さんは最初、そばに寄るだけでも、おそれ多いと思っていた。ところが、金と女の話しかしない俗物性をさらけ出されて、幻滅したらしい。奥さんが貸間を掃除していたら、荷風があわてて戻ってきて、隠してあった金がなくなっていないか勘定を始めたこともあったそうです。そんな不愉快な出来事が積み重なり、決別したようです」
 
『荷風全集』の発刊が始まり、金回りがよくなった荷風は、近所で中古の家を買い、2度目の引っ越しとなった。
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