キョウ てんのう10


原武史という日本政治思想史を専攻する大学教授を私は天皇の「生前退位発言」に関する発言で知りました。原武史は天皇の「生前退位発言」に関して8月26日づけの毎日新聞の北田暁大との対談で次のように述べていました。その要点を弁護士の澤藤統一郎さんの要約から引きます(原の発言のみ抜粋)。

原「今回のお言葉の放送は、いろんな意味で1945年8月15日の『玉音放送』と似ています。玉音放送は臣民という言葉が7回出てくる。今回も国民という言葉が11回出てきた。…昭和天皇が強調したのは、ポツダム宣言を受諾しても、天皇と臣民が常に共にある『君民一体』の国体は護持されるということ。今回も『常に国民と共にある自覚』という言葉が出てきます。玉音放送の終わり方は「爾(なんじ)臣民其(そ)レ克(よ)ク朕(ちん)カ意ヲ体(たい)セヨ」、つまり臣民に向かって自分の気持ちを理解してもらいたい、と。今回も「(私の気持ちが)国民の理解を得られることを、切に願っています」で終わっています。」「今回衝撃的だったのは、憲法で規定された国事行為よりも、憲法で規定されていない宮中祭祀と行幸こそが『象徴』の中核なのだ、ということを天皇自身が雄弁に語ったことです。」「実は国体が継承されているんじゃないか。昭和との連続性を感じます。イデオロギッシュだった国体の姿が、より一人一人の身体感覚として染み渡っていくというか、強化されているのではないか。こうした行幸啓を続けることで、いつの間にかそれが皇室の本来の姿のように映るようになった。」


澤藤さんはこの原と北田の対談について「対談者の関心は、まずは今回の天皇発言の政治性にある。このような政治的発言を許してしまう、象徴天皇制というものの危うさと、これに的確な批判をしない時代の危うさに、警鐘を鳴らすものとなっている」と評価しています。


その原が自身の発言に関して宮内庁からクレームをつけられて次のように弁明しています。


原武史
『宮内庁ホームページの「皇室関連報道について」で毎日新聞8月27日付の私の発言「平成になると~となり」が「事実関係の誤認」とされたことに対して、改めて反論したい。天皇、皇后が共に出る宮中祭祀や行幸啓自体は、宮内庁が強調する昭和戦後からではなく、明治、大正の時代にも複数確認される。』


原武史
『しかし、明治、大正、昭和は、宮中祭祀に天皇、皇后がずっと出ていたわけではないし、行幸啓もずっと行われたわけではない。平成は、宮中祭祀も行幸啓も天皇、皇后が一貫して行っている。この点で明確に違うと言いたかったのだ。「事実関係の誤認」ではなく「事実関係の解釈の違い」とするべきだろう。』


原が上記で弁明している宮内庁のクレームとは次のようなものです。


昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について - 宮内庁

『平成28年8月27日付け毎日新聞朝刊の「危機の20年」と題する記事の中で,原武史氏は「平成になると,宮中祭祀に天皇と皇后がそろって出席するようになったばかりか,行幸も皇后が同伴する行幸啓となり,」と述べています。昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況については,これまでも宮内庁ホームページで事実関係を説明してきたところでありますが,こうした事実と異なる認識が依然として見られることから,改めてこの点についての事実関係を説明します。香淳皇后は,ご晩年の20年近くは,ご高齢とご健康上の理由により,行事への御臨席が困難となられましたが,昭和52年に腰を痛められるまでの戦後約30年間の長きにわたり,昭和天皇と共に多くの宮中祭祀にお出ましになり,また,行幸啓を共になさっています。宮中祭祀について見ますと,昭和21年から51年までの恒例の祭祀で,かつ,天皇皇后両陛下のお出ましが予定された364件のうち,昭和天皇とお揃いでのお出ましは213件(58.5%)を占めています。ちなみに,昭和30年以降で見ますと66.7%となります。また,地方ご訪問について見ますと,昭和21年に開催された国体には,昭和22年の第2回石川県大会には昭和天皇が御巡幸を兼ねてお一方で御臨席になりましたが,昭和24年に東京都で開催された第4回国体以降は,昭和51年まで毎年,昭和天皇は香淳皇后とご一緒に御臨席になっています。また,植樹祭には,十勝沖地震のため御臨席を取りやめた昭和43年の第19回を除き,昭和25年の第1回から御不例となった昭和52年まで毎年春,昭和天皇とご一緒に御臨席になりました。なお,昭和21年から昭和29年までにわたる戦災復興状況御視察のための御巡幸は,当時,香淳皇后をお迎えできるような宿泊施設等が整っていなかったこともあり,昭和天皇がほぼすべてをお一方でなさっていますが,最終回の北海道御巡幸には第9回国体が北海道で開催されたことから,国体御臨席を兼ねて昭和天皇と香淳皇后のお二方でお出ましになりました。こうした戦後間もない御巡幸は別としても,昭和21年から51年までの地方へのお出まし78件のうち,昭和天皇とお揃いでのお出ましは73件(93.6%)を占めています。このように,宮中祭祀や地方ご訪問については,戦後から既に天皇と皇后がお揃いでなさっておられ,御成婚後の今上両陛下は,これをそのままに受け継がれ,昭和,平成とお続けになっておられるものであり,平成になってから,宮中祭祀や地方ご訪問を両陛下でなさるように変わったという事実は全くありません。』


宮内庁の記事が引用する原の毎日新聞紙上の発言は次のようなものです。「平成になると,宮中祭祀に天皇と皇后がそろって出席するようになったばかりか,行幸も皇后が同伴する行幸啓となり」。この原の文章の文脈では原は「平成以前は天皇と皇后がそろって出席するようなことはなかった」と言っているとしか読めないでしょう。それが原の言う「平成になると」の文脈上の意味です。それを原は「明治、大正、昭和は、宮中祭祀に天皇、皇后がずっと出ていたわけではない」「行幸啓もずっと行われたわけではない」と「ずっと~ではない」と弁明しています。こういう弁明のしかたを論理学では詭弁というのです。「ずっと~ではない」と言いたかったのであればはじめからそのように書いておけばよいことです。そうした断り書きなしに「平成になると」と断定的に述べている以上、原の弁明は通用しません。学者の弁明としてはお粗末きわまるもので、自己保身のための詭弁としかみなされないものです。


その原は少し前に以下のような』ツイートを発信していて私はそれを批判したことがあります。


「原武史は、「『国体』をより強固なものにした」という言葉にどれほどの含意をこめているか? 私は疑問に思うところがあります。原は8月16日づけのツイッターで「正直、またやられたという感じ。8日の天皇の「お言葉」をすんなりと受け止める基調の記事のなかで、私一人が違和感を抱く配役(悪役?)にさせられている」などとも不満も述べています。私は彼の真意を計りかねています。」(森川文人フェイスブック・コメント 2016年9月18日


「原武史の次のような言葉にも私は引っかかります。「つまり玉音放送で示された天皇と「民」が常に共にある「国体」が継承されつつ、一層内面化したという見方もできるわけだ」。「・・・見方もできる」とはいかにも評論家的な言い方です。その言い方に私は彼の主体的な「意志」を感じとることはできません。」(同上)

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