キョウ とうきょうさいばん
東京裁判

Blog「みずき」:「今日の言葉」は田中利幸さん(広島市立大学広島平和研究所元教授)の「『天皇は平和主義者』? —71年前にもあった話のはず—」の続編というべき論。テーマは「日本国憲法は平和憲法? 安倍政権「万民翼賛体制」推進の危険性を考える」。この論で田中さんは、かつて「神聖不可侵な絶対権力の象徴である天皇、無数のアジア人と自国民を殺傷した最終的戦争責任者である人間が「民主憲法」を制定、公布するという倫理的には甚だ不条理な手続きをとっている憲法を「平和憲法」と呼ぶのは正しいことか」と私たちに問題提起を投げかけています。ここで田中さんは特に目新しいことを言っているわけではないのですが、左翼を含めてなし崩し的な右傾化が進行する「いま」という時代には新鮮に聞こえます。

【日本国憲法は平和憲法? 安倍政権「万民翼賛体制」の危険性を考える】
実は、
明仁を「平和主義者」と見なすことだけではなく、現行の日本国憲法を「平和憲法」と呼ぶこと自体に、私は最近疑問を持つようになってきている。こんなことを言うと、「第九条の会」のメンバーの仲間からおしかりを受けそうであるが、九条そのものはあくまでも擁護すべきという意見には変わりがないし、擁護するだけではなく、実際にどのように活用すべきかを私たちは考えるべきだというのが私の持論である。それだけではなく、憲法前文は九条に勝るとも劣らないすばらしい内容であって、特に、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる」という一節などは、国連憲章に含まれるべき類の名文である、と私は思っている。にもかかわらず…、なのである。

なぜか。その理由は、現行憲法が、私たちの通念とは違って、明治憲法=大日本帝国憲法を引きづっている面がかなりあるように私には思えるからだ。周知のように、現行憲法は1946年に公布されたが、形としては旧明治憲法第73条・憲法改正条項に基づいて、天皇裕仁の名によって制定・公布された。つまり、神聖不可侵な絶対権力の象徴である天皇、しかも無数のアジア人と自国民を殺傷した最終的戦争責任者である人間が、「民主憲法」を制定、公布するという、倫理的には甚だ不条理な、と言うより本来あってはならない手続きをとっている。しかし、法的な手続き上は、現行憲法はあくまでも大日本帝国憲法の「改正」なのである。民衆の側から明治憲法廃棄運動を起こして、民衆が自主的に憲法を制定したわけではないし、それだけではなく、戦時中に民衆を徹底的に抑圧し苦しめた
治安維持法治安警察法などの廃棄要求運動を日本国民が起こした結果でもない。換言すれば、裕仁の名前で、戦前の「ファシズム体制」が戦後「民主国家」に「平和的に移行」したわけである。一方、戦争責任は、連合諸国による東京裁判でごく一部の軍人、政治家、思想家にのみ負わすことで済まされてしまい、これまた我々民衆の側から自主的に戦犯追及を迫ることはほとんどなかったとは周知のところである。このような形での新憲法制定・発布での「平和移行」が、果たして国家としての日本を根本的に「平和国家」に改革したと言えるのだろうか、というのが私の疑念なのである。(吹禅Yuki Tanaka 田中利幸 2016年9月27日

【山中人間話目次】
・「いま」という時代を考える――田中利幸さん(広島市立大学広島平和研究所元教授)
・辺見の文章の底にある緊迫の気配を読みとることのできない辺見庸評価とはなにか?
・私たちの沖縄・高江へのアプローチ――さまざまな連帯(1) 「警視庁機動隊の辺野古・髙江派遣費用」の支出差し止め請求を
・私たちの沖縄・高江へのアプローチ――さまざまな連帯(2) 平安名純代さん(沖縄タイムス米国特約記者)
・分断される沖縄(1)――沖縄の人たちを追い詰めるバッシングと「無関心」
・分断される沖縄(2)――住民と作業員の対立を生ませる構図の異常


【山中人間話】


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