キョウ るいぼなばると

【わかったようでわからない論の行方について】
 
内田樹がツイッターでマルクスの「ルンペン・プロレタリアート」考をつぶやいている。

『マルクスの『
ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』はルイ・ボナパルトというどこから見ても二流の政治家がそれにもかかわらず政財官、メディア、ブルジョワ、ルンペンプロレタリアートからの圧倒的な支持を集めて20年にわたって「革命の祖国」に皇帝として君臨した歴史的事実を論じたものです。』(8月21日)

『マルクスがそれについて長い考察(実にすぐれた書物です)を書いたのは、マルクスの知性をもってしても「どうしてあんな二流の政治家が大きな顔ができるのか・・・」が十分には解明できなかったからです。』(同上)

『「ルンペン・プロレタリアート」というのは「プロレタリアでありながら、みずからの階級的利益を損なう政治的立場を熱狂的に支持する」人たちがどうして「そんなこと」をするのかマルクスにもうまく理解できなかったという消息を伝えております。』(同上)

内田樹の上記の「ルンペン・プロレタリアート」考の前提には、

『「金以外の
インセンティブ」で動く政治家しかスケールの大きな事業はできません。でも、それって「イデオロギー」か「宗教」しかないんですよね。安倍政権は「金」で財界を巻き込み、「イデオロギー」で右派を集め、「宗教」で日常運動を作っているのになんであんなにスケールが小さいんだろう。』(同上)

という認識がある。

しかし、内田は、
安倍晋三の評価を誤っている。安倍は「金以外のインセンティブ」で動く政治家ではない。彼のインセンティブは金であり、名誉であり、権力である。その欲は総べてカネに帰結する。彼が「スケールが小さい」のはカネで動く政治家でしかないからである。内田は、そんな明白なことを、わざわざマルクスの「ルンペン・プロレタリアート」考を持ち出し、わかったようでわからない論を展開する。

わかったようでわからない論は
ペダンチックな装いを外せば結局わからない=論理不明瞭の論ということでしかない。そして、論理不明瞭の論は人の態度を保留にさせる。すなわち、そこからなにごとの行動の観念も発生しない。人畜無害の論になるほかない。人を煙に巻くのがうまい内田樹らしい論だ。人畜無害だから、日和見を旨とする学者らしき人々は安心して少し辛口に見えるのを幸いにしてその論をリツイートする。どうやらフェミニストらしい20世紀イギリス文学を研究する女性の研究者もこの内田の論をリツイートしている。いまの学者と言われる人たちの水準をよく示している。いまの大学では正統なマルクス論は論じられることはなく、内田的なわけのわからないマルクス論だけが流通していく。これがいまの大学の水準だ。こうした大学の学者たちが昨年、「安全保障関連法に反対する学者の会」なるものを結成した。なにごとが起こることも、なにごとも生まれるはずもない。これがいまの学者近辺の学問と称するもの=思想と称するものの状況ということである。(東本高志 2016年8月28日

【山中人間話目次】
・象徴天皇制論議の基礎のひとつとしての毎日新聞朝刊文化欄の「原武史・北田暁大対談」の全文
・25年間務めた北海道新聞社「セクハラ自殺」問題が法廷の場へ 問われる人権への姿勢
・TBSテレビ「報道特集」の「反テロ戦争」特集での米国人インストラクターの忘れられない言葉-太田昌国
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