キョウ どくさい

Blog「みずき」:「民主主義が独裁への道を開くことになりかねない」という藤原帰一さんの危惧については、「『喝采』による『民主主義的な感情』による独裁の民主的正統性による権威付け」の過程を考察したドイツの法学者、カール・シュミットを引いた弁護士の森川文人さんの短評もあります。合わせて参照されれば「民主主義と独裁」がなにゆえに関係するのか。その関係性についての理解も深まるものと思われます。

【民主主義は独裁への道を開くことになりかねない】
小学校の先生に教わった民主主義とは、要するに多数決のことだった。ほんとうに多数決がいちばんよい制度なのか、その頃から疑問だった私は、どうして多数決がいいんでしょうと先生に質問したことを覚えている。先生は質問に答える代わりに、どこがいけませんかと私に質問を返した。民主主義と多数決を同じものにすればどんな問題が発生するのか、小学校五年生の私は答えることができなかった。半世紀経ったいまも自信はない。でもあえて答えるなら、多数決だけの民主主義から取り残されるのはマイノリティーの問題だと思う。多数決によって選挙や議会の投票結果が決まったとしても、負けた側がその決定に従わなければ制度は成り立たない。今度は負けても次の機会には自分が勝つことが期待できるのであれば、自分に不利な決定を受け入れることもできるだろう。だれが多数派で誰が少数派かが固定していない場合、多数決は必ずしも不合理な制度ではない。それでは、国民の一部に過ぎない少数民族とか宗教など、人口が少ないために国内社会の多数となることができない人についてはどうだろう。民族や宗教によって差別されることがなく、それが政治の争点となっていなければともかく、民族や宗教の違いによる差別が厳しい場合には紛争の発生は免れない。政治社会の決定が多数決によって行われ、その多数決が多数派の考えばかりを反映するなら、少数派が迫害の排除を求めても成果は期待できない。制度によって解決ができないのであれば、力に訴える人も生まれてしまう。多数決だけに頼る民主主義だけでは多数派と少数派が共存する社会をつくることは難しい。欧米諸国における民主主義は、決して多数決だけを指すものではなかった。森政稔氏が「
変貌する民主主義」(ちくま新書)で触れているように、現代の民主主義は自由主義を源流として、そこに民主政治という統治の仕組みが加わったものとして捉えることができる。もし民主主義が政治権力を多数派の手に委ねるだけのものであるなら、民主主義が独裁への道を開くことになりかねない。民主政治の前提は多数派と少数派の別を問わない自由な公共社会である。(略)既に自由主義は、自分の自由とともに他者の自由を認める制度ではなく、国家が市場から出て行けば自由な社会が保たれるという観念となって久しい。いま民主主義は、自由な公共社会における統治の仕組みではなく、多数派が少数派を排除する制度の別名に変わろうとしている。(藤原帰一「朝日新聞 時事小言」2016年8月24日

【山中人間話目次】
・国民の自信と誇りを高めるオリンピック報道?~NHKの国策翼賛体質はここにも~ 醍醐聰のブログ
・自称「民主主義者」の呆れるばかりの目の不確かさについて 
・WPはトランプ支持を表明したジュリアーニ元NY市長の言動がおかしく、陰謀論満載の話ばかりをするので「お医者さんに行くべきだ」と諭している
・サンダースが「私たちの革命」という新しい組織を立ち上げた
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