キョウ 由布院2

Blog「みずき」:澤藤統一郎さんは「ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない」と言われますが、私はこの澤藤さんの 「へそまがり宣言」に賛同、同調します。私はかつて(14年前)筑紫哲也さんに大分県知事選への出馬を要請する手紙を書いたことがありますが、そのとき筑紫さんが湯布院のミニコミ誌に「異物に対する抵抗力」について書いていたこと、私と筑紫さんの共通の友人に「私は怠け者だ。365日稼動の知事職などつとまらない」と語っていたことに対して「いわれる意味において、私も怠け者は大好きなのです。いま、怠け者こそ知事になるべきだとも思います。先のインタビュー記事にあった『異物に対する抵抗力』は怠け者ほど強いのではないでしょうか」と応答したことがあります。もちろん、ここでは知事云々の件は関係ありません。その上で筑紫さんへの応答に「怠け者」とあるところを「へそまがり」という言葉に換えて澤藤さんにお贈りしたいと思います。「異物に対する抵抗力はへそまがりほど強いのではないでしょうか、と。ただ、もうひとこと欲しかった感は否めません。

【私の「へそまがり宣言」】
有史以来連綿として、一つの妖怪が我が物顔に日本の社会を徘徊している。最近、むやみにその妖怪の威勢がよい。――妖怪の名は「
同調圧力」。この妖怪、別名を「長いものには巻かれろ」「出る釘は打たれる」とも言う。「附和雷同」「寄らば大樹」「地頭には勝てぬ」「ご無理ごもっとも」などという渾名もある。この妖怪は毒気を撒き散らし、その毒気は空気感染する。多くの人をして「みんなと同じでなければ、生き苦しい」「はみ出すのは恐い」「ボッチは耐えられない」「イジメを傍観できなければ、イジめる側に付かざるをえない」と思わせている。日本のあらゆる支配構造が、この妖怪との神聖な同盟をむすんでいる。政治・経済・教育・メディア・学問、どの分野においてもだ。アベ政権、自民党、象徴天皇制、神社庁、日本経団連、NHK、新聞協会、民放連、JOC、教育委員会、PTA、学級、町内会…、いずれもこの妖怪と結び、この妖怪に生け贄を差し出して見返りに与っている。現代の日本において、およそこの妖怪の毒牙による被害を被らなかった者がどこにいるだろうか。この「妖怪・同調圧力」は理性や知性を目の仇として忌み嫌う。自立した個人の敵であり、民主主義の攪乱者であって、全体主義の温床にほかならない。これまでの日本社会の歴史は、多数派による少数派に対する同調圧力に、少数の側が果敢と異を唱え困難な抵抗を試みた闘争に彩られている。多くの場合、少数派はあえなく敗れている。もともと、闘い我に利非ずなのだ。多数派とは、現体制であり、現体制を支えるイデオロギーの担い手である。多数派に与していることは、安全で安心であって、多数派との角逐は面倒であるだけでなく、常に孤立と排斥の危険を背負い込むことになる。(略)その言論が、自らが多数になるのに有効か否かを斟酌しない。この立場を「へそまがり」という。へそまがりは、自分の言論が社会にどう受け容れられるかを斟酌しない。ひたすら正論を吐き続けることで、「妖怪・同調圧力」と対峙する。勝てる見込みがあるかどうかは、視野の内にない。青くさい、へんくつ、などの陰口を意に介さない。へそまがりは、徒党を組まない。孤立を恐れない。そして、へそまがりは、けっして社会におもねらない。どんな権威も認めない。権力には徹底して抗う。それなくして、「妖怪・同調圧力」と対峙する方法はないものと信じるが故だ。(略)へそまがりは孤独であるが、孤独恐るるに足りず。国家にも、資本にも、天皇制にも、メディアにも、町内会にもなびかない「へそまがり」バンザイ。そう、自分に言い聞かせて、「へそまがり宣言」とする。ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない。ひとり、へそまがり精神を貫徹するのみ。(澤藤統一郎の憲法日記  2016年8月17日

【山中人間話目次】
・核先制不使用反対問題。米国のサンダースら米民主党上院議員との対比で安倍晋三のあまりにも愚かしい愚行を思う
・「フォイエルバッハに関するテーゼ―」と中野重治の「おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな」の詩
・ニッポンへの発言 キーワード 中上健次の熊野へ!=中森明夫(毎日新聞 2016年8月16日)
・ゾルゲ事件と伊藤律――歴史としての占領期共産党(覚え書き)加藤哲郎
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