キョウ へんみ6

Blog「みずき」:相模原事件が起きたいま、改めて辺見庸の「すべての人間は障害者である」を読み直してみる。「他者の痛みを自分の痛みとして感じることはできない。しかし、想像力という武器によってそこに橋をかけようとすることはできる」と編者は言う。いま、私たちに必要なのは「他者の痛みを自分の痛みとして感じる」想像力かも知れない。犯罪者を病者に追いやるだけではなにも、何事も解決しない。

【すべての人間は障害者である】
人は誰も他者の痛みを自分の痛みとして感じることはできない。しかし、自─他の感覚が絶対的に断絶されているとしても、私たちはせめてそこに橋をかけようとすることはできる。想像力という武器によってである。辺見庸氏は、他者の痛みにまで想像力の射程を届かせることのできる稀有な作家だ。そして、その透徹したまなざしは、常に痛みをともなう生を生きる者たちに向けられている。では、そんな氏のまなざしに、存在そのものが痛みともいえる障害者たちはどう映るのか。お話をうかがってみた。(聞き手:桐谷匠 D.culture編集部)

聞き手 健常が幻想であるという意味は、何となく理解することができた。では、それがほとんど暴力と同義であるとはどういうことか。ここでヒントになるのが、やはり辺見氏が記した次のような言葉だ。「病院という閉域は、刑務所や拘置所、学校同様に、人と人の関係性がいわば制度的に偏方向的になりやすい。患者と医師、囚人と看守というように<見る>と<見られる>が不当にはっきりします」(「
自分自身への審問」)。たとえば障害者福祉の現場でも「見守り」という言葉があるように、障害者は健常者に一方的に<見られる>存在でしかない。この双方向性を欠いた一方的な視線こそが、健常幻想の暴力の根なのではないか

辺見 それはそうです。見る側は健常で、見られる側をいわば健常ではない人間、つまりなんらかの故障や異常がある人間と断定しているわけですから。しかも、見ることによって相手を類化してしまうわけです。しかし、見られる側も実は見ています。それこそ思考を奪われたような状態にある人間でも、じーっと相手を見ていますよ。この双方向性に気づくことぐらい大きな発見はありません。一方的に見られる関係ということを少し敷衍すると、相手を障害という言葉で代表される表象と見なす視線というのは、実は中世や近世より現代の方がずっと強くなっているのです。障害者か健常者か、病者か健康者か、あるいは加害者か被害者か──そうした本質的には存在しない境界を設定し、すべてを二項対立的に見る視線というのは、かつてより21世紀現在の方が圧倒的に強くなってきている。勝者と敗者とかね。そういう社会に、いまはなってしまっている。(
D.culture 2016年2月29日

【山中人間話目次】
・醍醐聰さんの「都知事選:自省なくして革新候補への支持は広がらない」という問い
・ふたたび澤藤統一郎、徳岡宏一郎、猪野亨弁護士の揃い踏み小池百合子大批判
・日経の世論調査は「有力3候補の差が序盤より縮まり接戦を展開している」と見ている。鳥越氏支持層にとっては展望のもてる調査結果だ
・夷斎先生ならいまの事態をどう見るか
・内野光子さん(歌人)の目取真俊『平和通りと名付けられた街を歩いて』評
・相模原事件 26歳の青年の「僕らの社会」・社民党が公認し、小林節センせーがほめた増山麗奈のヘイトクライム
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