キョウ されど
その国家は廊下の右奥に立っている

Blog「みずき」:「オバマ訪広」という政治日程はたしかに終了しました。しかし、政治日程は終了しても「オバマ訪広」によって裸体の思想を剥きだしにしたわれわれニッポン人の精神構造の問題は当然終了しているわけではありません。半澤健市さんは言います。「いまこの国に起こっている状況は、『済んだことは水に流す』という我々の精神が、自己表現をしているのではないか」、と。どういうことか? 「核の傘に依存した『平和国家』が、自ら核で戦う「戦争国家」に変身してゆく」。それが「オバマ訪広」によって剥きだしにされたこの国の「自己表現」。「その国家は廊下の右奥に立っている」、と半澤さんは指摘します。


【三度、オバマの訪広歓迎の論理を問う】
バラク・オバマ米大統領の広島訪問は(略)予想どおり私は失望した。オバマの言動と日本側の歓迎一色の双方にたいしてである。(略)私が
過去二回述べてきたオバマの謝罪必要論は、核兵器が絶対悪であるという素朴な戦争観から出たものである。毒ガスが禁止されていて原爆が埒外だという法はない。メディアに出たオバマ歓迎論は、殆どが政治情勢または外交情勢論であった。ドレイの論理に等しい発言が多い中で、私が同感したのは田中利行広島市立大元教授(『東京新聞』2016年5月18日)と、平岡敬元広島市長の発言だ。ここでは平岡発言を紹介する。彼はどう言ったのか。オバマ訪広前の発言だが、今でも全く意義をうしなっていない。2016年5月17日の『琉球新報』のインタビューから抜粋して以下に掲げる。「広島市と広島県、政府も謝罪を求めないとしているが、そう発言するのは死者の声と被爆者の苦しみに向き合っていないからではないか。そう発言した彼らにとっては、被爆がすでに歴史になっている。謝罪問題を素通りして、ただ来てほしいというのは、原爆で亡くなった死者への冒涜だ」。「謝罪を表明するのは外交上、難しいだろう。ならば原爆慰霊碑の前で、そこに書かれていること、つまり『過ち』を認めるべきだ。『あの投下作戦は間違っていた』と。

過ちでない正しい行為であったとするなら、再び核兵器を使ってもいいということになりかねない」。「被爆地は正当化論を絶対に認められない。そして力による平和も認められない。平和は核抑止論でなく外交力に頼るべきだ。特に近隣外交だ。日本は戦争のできない国。原発をこれだけ抱えて戦争できると思う方がナンセンスだ」。「米国は(原発を)手放したくないという。力による平和を信奉しているからだ。(略)核を放棄できない。これでは、北朝鮮と同じ論理ではないか。オバマ氏は被爆者と向き合い、核廃絶へ向け具体的に何をするのかを示してほしい」。』ところで、世論調査によれば
オバマ訪広歓迎が98%だったという。私はこれにも驚いた。ただ一人、評論家の東谷暁が、文化放送のニュース番組(2016年6月5日)で、「私(東谷)は謝罪なしの訪広にはオバマ反対だった。その意味では私は2%に属する」という発言をしていた。いまこの国に起こっている状況は、「済んだことは水に流す」という我々の精神が、自己表現をしているのではないか。私には異様に見えるこの状況は、戦後日本の道程を正確に再現し同時に先を見通しているのではないか。核の傘に依存した「平和国家」が、自ら核で戦う「戦争国家」に変身してゆく。その国家は廊下の右奥に立っている。(半澤健市「リベラル21」2016.06.08
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