キョウ さんや

Blog「みずき」:あるメーリングリストに流れてきた色平哲郎さんの自己レスに目がとまりました。「これはマザーの現代日本へのご指摘。以下、親しい牧師さんから:ネパールを旅したとき、ガイドさんに訊きました。『ネパールにはホームレスは居ますか』答え『ハウスレスはいっぱいいますが、ホームレスはいません。寝る所と、食は家族、親族、友人、地域の誰かが提供していますから。』ハウスはなくても、ホームはあるわけです。現代日本の悲劇はホーム喪失です」。なんの自己レスかといえばマザー・テレサが山谷地域を訪れたときに残した言葉の紹介の自己レスです。マザーの言葉は次のようなものでした。

この世で最も貧しいことは、飢えて食べられないことではなく、社会から捨てられ、自分なんてこの世に生まれてくる必要がない人間であると思うことです。その孤独感こそが、最大の貧困なのです。日本にもたくさんの貧しい人たちがいます。それは、自分なんて必要とされていないと思っている人たちのことです」(
色平哲郎 2016年6月4日)。短い文章ですのでこの言葉をもう少しふくらまそうと思って「今日の言葉」として引用しているのが以下の吉本隆明との対談の中での辺見庸の山谷に関する言葉です。

【彼らはしきりに歩く】
彼らはしきりに歩くんです。途中でも旅館なんかには泊まらずに。また路上生活、アオカンと言いますが、冬場は非常に厳しくて、一週間続ければ病気になると言われています。にもかかわらずこの冬空の下で寝ている。彼らをドヤ(簡易宿泊所)や病院に収容しても、不思議なことに一ヵ月もするともう出たいという男もいるんですね。屋根と暖房があればよさそうなもんだけど、屋内にいる方がどんどん体調が悪くなってゆく。それが路上生活に戻ったとたんに元気になったりするんですね。一月の寒さの中、路上で朝から酒を食らってひっくり返っていて、午後見てもまだひっくり返っていて、このおっさんもう死んじゃうんじゃないかなと思ってどきどきするんだけど、次に日にはちゃんと立って歩いていたりする。私はそういうのを何度見ても、不思議な感動を覚えるんですね。こういう風景は語れば尽きないんですけれど、どうも山谷にホームレスが集まって来るのは、単に景気が低迷しているからとか、企業でリストラが進んでいるからという経済的理由だけではないものを感じるんですね。もっとメンタルなものも理由ではないかと思うんです。さらにいえば、この時代の人間とはこういうものではないか、いわば国家とか、家族とか、会社による束縛を、心底嫌がっているんじゃないか。それらからすべて抜けて「無」になりたがっている者もいるんじゃないか、と。(略)

最近、彼らとの関わりの中で、ほんとに人とも言えないような、土の中から生まれてきたような人間を抱き起こす作業をしたことがあるんです。裸足でしてね。ベルトのかわりに腰に針金巻いて、そりゃひどい臭いです。まだこの手や胸の中に感触が残っているんですが、そのとき感じたのは、憐憫でも同情でもないんですけどね、ある種のいとおしさなんです。まったくの負として、そのように生きているといういとおしさですね。じゃあ、負でない世界にどんな意味があるというのか、私は山谷に行く以前は都心で暮らしていましたが、そこには果たして根腐れはないのか。この消費資本主義の中で根腐れがないかというと、隠蔽しているだけで、地下茎部はもっとひどいかもしれない。少なくとも私は、きんきらきんのビルから出てくるスーツ姿の男女にいとおしさを感じたことはありません。いま、健全に見せかけているものって、すべていかがわしいと思います。私は宗教者ではありませんけど、人間が神に似せて作られたのだとしたら、彼らの方がわれわれより神に近いのではないかとまで考えました。戦後社会の矛盾を矛盾として額面どおり身体で受け止めてしまっている人間たちに、私は不思議なプラスの要素を見たんです。(吉本隆明と辺見庸の対談集『夜と女と毛沢東』(文藝春秋 1997)から
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