キョウ かるめんまき 

Blog「みずき」:久しぶりにカルメン・マキさんの動向を知る。カルメン・マキさんの年齢の重なりとほぼ重なり合うようにして私も生きてきた。マキさんはいまでもジャズバーで歌っているのですね。「時には−−」は、まさしく時代の気分だった。そんな時代を私も生きてきたのだ。

【ねぇ わたし こわいの。何処(どこ)へ向かうの わたしたち】
17歳だった1969年、「
時には母のない子のように」で歌手デビューを飾ってから間もなく半世紀。(略)高校中退後の68年、小劇場ブームを巻き起こした、故・寺山修司氏主宰の劇団「天井桟敷」に飛び込む。寺山氏が作詞した「時には−−」は、重い旋律が時代の気分と合致して累計100万枚を超える売り上げを記録。その年の紅白歌合戦にジーンズ姿で出場し、型破りな新人という強烈な印象を残した。(略)アイルランド人とユダヤ系ポーランド人の血を引くアメリカ人の父、日本人の母との間に生まれた。父が米国に帰る際、体の弱かった母と、生後間もない一人娘はついて行けなかった。太平洋戦争の記憶がまだ生々しく残っていた50年代。大きな瞳の、彫りの深い顔立ちの少女は、日本社会でさまざまないじめを受けた。前日まで一緒に遊んでいた子が、急によそよそしくなる。友だちの親が、好奇の目でなめ回すように見てきたり、憎しみのこもった視線を向けたりしたことも覚えている。「そのころの差別のトラウマみたいなものはいまだにあります。でも、大人になって、差別というのはどこに行ってもある、とわかった」。(略)

38歳で、娘を授かる。10代で顔も名前も知れ渡ってしまった自分にも「歌手じゃない人生」「平凡な幸せ」が手に入ると感じ、子育てと家事に専念しようと決断した。「その時は本当に歌手をやめよう、と思った。それなのに、気がつくと歌っている。それは人間の業、運命なんですね。神様がいるとすれば、『お前にはこれしかない』と言われているんだと思った」 4年後、請われて子守歌をテーマにしたアルバムを 制作することになった。「その出来に納得できなかったから、結局、復帰したんです」 (略)「今のバンドのメンバーがロック時代の私の演奏を見て『かっこいい』って。息子ぐらいの年の子が、ビックリしていた」。笑みがこぼれた。

5年前の東日本大震災と、福島第1原発事故。この経験を経て、この国はいい方向へ行くと思ったが、すぐに失望に変わった。「モノばかり追い求めてきた末にこうなった。もうお金を得ることや技術の発展は達成して、豊かさを考える時なのに。まだ、原発を造って輸出したり、東京五輪に何兆円もかけたりして。どうして?」違和感を、根無し草を意味するフランス語「デラシネ」という言葉に込めて、作詞した。最近の演奏活動も「デラシネライブ」と呼ぶ。絶望的な時代に抗したいという思いだ。 <ねぇ わたし こわいの/何処(どこ)へ向かうの わたしたち/日々の暮らしに流されて/瞬きひとつで10年が過ぎてゆく>「私はデラシネ。でも、今の日本にはたくさんデラシネがいると思う」。ある日のライブで客席にそう語りかけた。 震災では多くの人が故郷を追われた。不安を抱えながらも、自由に生きようともがく人たちに向けて、歌い続けようと決めている。(
毎日新聞 井田純 2016年5月6日

【山中人間話】





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