キョウ つしまゆうこ

Blog「みずき」:あわせて太田昌国さんの津島佑子評もご参照ください。

【私にとって、津島佑子はいつも中上健次と結びついていた】
私が
中上健次に紹介されて、津島佑子に会ったのは、1970年代の末ごろである。彼らはかつて同人雑誌「文芸首都」の仲間であった。私が知って驚いたのは、彼女が母親に小説を書いていることを秘していたことである。だから、同人誌の郵送をことわって、自分で取りに行ったという。さらに、彼女は同人たちにも、太宰治が父親であることを隠していた。つまり、彼女は普通なら作家となるのに有利と見えるような条件を打ち消して、ただの人として出発するためにただならぬ苦労をしていたのである。むしろ、それが彼女の文学を形成したといえる。とはいえ、私は、彼女の物語を作る能力は、父親譲りの天分ではないかと常々感じていた。私にとって、津島佑子はいつも中上健次と結びついていた。中上が私の弟なら、津島は妹であった。91年、湾岸戦争に反対する文学者の集会で、私は彼らと一緒に行動した。しかし、その翌年に中上は死んだ。以来、私は中上の全集を編む仕事をのぞいて、文学の現場から遠ざかった。津島佑子が私にとって特別の存在となったのは、むしろそれからである。彼女は私にとって、中上の代理であったのかもしれない。実際、彼女は、私生児や孤児、障害者、少数民族、動物のようなマージナル(周縁的)な存在について書く作家であった。虐げられたものへの共感と深い愛情をもつ作家であった

そして、そのために世界各地で活動した。たとえば、フランスの大学でアイヌ文学について講義したこともある。しかし、津島佑子は中上健次の代理以上であった。私が瞠目したのは、彼女がむしろ近年になって、それまでとは違ったスタイルを、次々と開発したことである。特に私が驚嘆したのは『
黄金の夢の歌』(2010年)である。それは、私の『世界史の構造』(10年)と完璧に符合するものであったから。そして、昨年の「ジャッカ・ドフニ」(雑誌「すばる」連載)となると、世界文学史において類を見ないような作品である。この勢いでは、この先、一体何を書くだろうか、と思ったほどだ。日本では知られていないが、津島佑子はノーベル文学賞の有力な候補者であった。それに最もふさわしい多様な作品を書き、国際的な活動をしていた。もう少し長生きすれば、受賞したであろうから残念である。また、私は反原発デモで、何度か、彼女と一緒に国会周辺を歩いた。そういうことが二度とできないのかと思うと悲しい。(柄谷行人「朝日新聞」2016年2月23日

【山中人間話】






Blog「みずき」:ここで「一方」と言っているのは、昨日のエントリ
のtoriiyoshikiさんの論に対してという意味です。
 
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