ロンドン・コベントガーデン  

Blog「みずき」:この記事の紹介者は次のように言います。「『当事者以外は声をあげるな』が罷り通ることは、為政者と利害関係者の好きにやらせろとほぼ同じ意味。為政者はすべての当事者だから」、と。

【取材対象は、マスコミのネタ袋ではない】
記者になる前からずっと、報道機関の決まり文句として使われる「声なき声に寄り添う」という慣用表現が苦手だった。必死で叫んでいる人たちがいる。周囲の喧騒が大きすぎることで、結果としてこちらに届く叫びはかすれている。だからといって、聞き入れる側の視点で叫びを「声なき声」と記すのは、傲慢で残酷ではないか、と。声を「なきもの」にしているのは誰なのか。匿名ブログ記事
「保育園落ちた日本死ね」や、それを発端とした一連のムーブメントを追いかけながら、あらためて思う。取材を進める中で、現場を威圧的な態度で歩き回る年配の男性に遭遇したことがある。彼は参加者や女性記者の一人一人に子どもの有無を聞いて回っては、「あなたはお子さんがいらっしゃるのね、ならよくわかるでしょう」「へぇ、あなたは独身なんだあ。でも、まだ若いから、ねえ」などと、何かを悟ったかのようにコメントして回っていた。彼だけではない。スタンディングの現場で「アベ(安倍晋三首相)は子どもがいないから、子育てのことは分かんねーんだよ」と悪態をつく通行人もいた。政権へのいら立ちは分かるが、それもまたこじつけだ。「当事者性」も「匿名性」も、問題の本質を語るにおいて、一体どれだけ大切なのか。国会で湧き上がった「誰が書いたんだよ」などというヤジ、安倍首相の「匿名である以上、本当か分からない」発言、テレビに出演した平沢勝栄議員(自民党)の「本当に女性が書いたんですかね」という態度。当事者でなければ切り捨てるのか。当事者なら対応は変わるのか。(略)

「当事者であること」というステータスに重きが置かれているならば、それは非常に危険なことだと思う。当事者の絶対数が少ない社会的マイノリティーは、確実に制度の谷間からはい上がる機会を失い、やがて淘汰される。(略)取材対象は、マスコミのネタ袋ではない。傷付きやすい心を持った生身の人間だ。主催者がきちんと「サイレントスタンディング(紙を掲げ、黙って立つ)」の趣旨を表明しているにもかかわらず、「せっかくなので皆さんで、怒りの声をコールしてみてください。『頑張るぞ、オー』」と拳を突き上げる感じで」などとしつこく要求する中年女性記者もいた。基本的に他社の取材マナーについて口を出さない私だが、思わず「今日はそういうんじゃないから」と声を上げずにはいられなかった。顔を公衆の面前にさらし、存在を示すことに、どれだけの勇気が要るだろうか。一体、それ以上の何を求めるのか。(
草山歩報道部記者「神奈川新聞」2016年4月13日
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