キョウ ちゅうごくきょうさんとう2
中国共産党中央常務委員

長年、中国で外国語学校の教師をつとめ、現代中国の政治、経済の民間レベルの実情に造詣の深い阿部治平さんが「日本共産党の元幹部は中国をどう見ているか」という記事の中で元共産党参議院議員で同党の国際部長や政策委員長を歴任した当時、共産党有数の理論家と言われていた聴濤弘さんの新著『マルクスなら今の世界をどう論じるか』の書評を書いています。

阿部さんは聴濤さんの著書の中の発言を引きながら自身の論評を加えているのですが、私はその書評を読みながら、当時、共産党有数の理論家といわれていた聴濤さんの理論の核心は、マルクス主義的見地に立った政治学や国際政治理論そのものというよりも、あえて名づければ「共産党信仰」といってよいそれ自体は科学的とはいえないある種の宗教的理念(帰依心)の所産と見るべきものではないかという思いを強くしました。

そのように見れば、共産党有数の理論家である聴濤氏でさえその理論の核心が「共産党信仰」というパッション(情動)によって支えられているのであってみれば、ましてや知識層ではない一般党員やシンパサイザーにあっては「共産党信仰」というパッションが同党支持の構造的な基底をなしているであろうことは見やすい道理です。
昨年末の共産党指導部の天皇臨席下の国会開会式出席問題や「当事者不在の国家間処理という点で、日韓政府が請求権問題は『完全かつ最終的に解決した』とする協定を結んだ五十年前の躓きの亡霊」(米山リサさん・トロント大学教授)でしかないやはり昨年末の日韓「合意」を「一定の前進」とする「志位談話」に関して共産党員や同党シンパサイザーから皆無といってよいほど批判があがらないのは、彼らの共産党支持は「理念」によるものではなく、「共産党信仰」が同党支持の構造的な基底となっていることを示すひとつの証左と見てよいでしょう。

共産党はもはや「理念」の政党ではなく、公明党という「宗教政党」とほぼ同質の「信仰政党」に陥っていると見た方が実質に見合った評価というべきではないか。

私が聴濤氏の理論を「共産党信仰」的なものでしかないとみなすのは、以下は中国共産党の評価に関わる問題であり、日本共産党の評価に関るものではありませんが、聴濤氏は無条件に共産党支配を善なるものと肯定し、そこから社会主義の展望を語ろうとしているからです。こういう理性のありかたは、それは「理性」と呼ぶよりも「共産党信仰」と名づけた方がよりふさわしいでしょう。

阿部治平さんによれば、聴濤氏は中国共産党の評価について次のように述べています。

聴濤氏は、中国は資本主義化した道をさらに一層深化させる方向に進むのか、今後ある時点で社会主義的転換が起こるのか、と自問自答している。そして「当然転機が起ることを期待する。期待の論拠は中国が1949年に革命を成功させて以来、さまざまな事件を繰返してきたが、66年間、社会主義の理念を放棄したことはないという点である」

このくだりにはびっくりする。「中共が支配しているから社会主義だ」というのと、「中共は社会主義の理念を放棄していないから、社会主義へやがて転換する」というのはよく似た理屈である。いずれの判断も、中共に労農人民の立場に立った社会改革の意志と能力があるという前提があってはじめて生まれるものである。論拠というにはあまりに脆弱である。聴濤氏は中共もまた変化したことにお気づきでない。中国の一般庶民はもちろん、権力のない何千万という下部党員もほとんどが内心では中共から距離を置いている現実をどうお考えだろうか。


阿部治平さんは聴濤さんの上記の認識を「中共に労農人民の立場に立った社会改革の意志と能力があるという前提があってはじめて生まれるもの」という評価をしていますが、そのことを別の言い方で言えば「共産党信仰」ということになるでしょう。

いま、そうした聴濤さん流の理性のありかたは共産党内では常態化していると見てよいでしょう。それが共産党の今日の「右傾化」の根源となっているというのが私の見るところであり、問題提起です。

以下は、阿部治平さんの論「日本共産党の元幹部は中国をどう見ているか」の全文転載。 

昨年末、村の日本共産党(以下日共)の人が来て、後援会の会長を引受けてほしいといった。私は当面の問題では一致できるとしても、あなた方が目指す社会主義社会は党員の誰に聞いてもよくわからない。しかも中国が社会主義への道を歩む国だというが自分には到底そう思えないという意見をいって、丁重にお断りした。

こういう話のあとなので、聴濤弘著『マルクスなら今の世界をどう論じるか』(かもがわ出版)という本をインターネット上で見たとき、その書名に魅かれた。

聴濤氏は1935年生まれ。京都大学経済学部中退、1960~64年の5年間旧ソ連留学、日共国際部長・政策委員長を歴任、もと参議院議員という輝かしい経歴の持主である。私は、日共がどんな社会主義を構想しているか知るよりどころになると思ってこの本を読んだ。聴濤氏の著作を読むのは初めてなので、以下の感想には誤解があるかもしれない。

ここでは上記の本の<中国をどうみるか――「社会主義」か「資本主義」か・・・・・・という部分についてだけふれたい。

聴濤氏は冒頭で「マルクスがいまの中国を見れば即座に『社会主義ではない』というにきまっている」という。私もその通りだと思う。さらに「もう少し違った観点からも(マルクスは)『社会主義ではない』というであろうと思っている」とのことである。

「もう少し違った観点」を求めて読んでゆくと、「ネップをはるかに越える」というところで、中国人学者余斌のことばを肯定的に引用している(ネップはロシア革命直後の経済危機脱出のための一時的な市場経済政策)。

余斌氏は、中国の「改革開放」路線はそもそもネップの精神にもとづくものであった。しかし今の中国はネップを「はるかに越えて資本主義化」しているとのべ、さらにレーニンは資本主義の復活を警戒するよう注意していた。国有企業の改革は労働者が企業の管理・運営に参加する改革でなければならない、と発言したということだ。

聴濤氏は、中国経済は完全に市場経済に開放され、それは合理性をもつといいつつも、「市場は必ず暴走する(無政府性)。それに社会的規制をかけていくのは資本主義でも労働者の任務である。にもかかわらず『社会主義』になると市場経済が『決定的』になるというのは理論上は社会主義の否定を意味する」という。これにも同意できる。

さらに最後の「全人代の変容」というところで、聴濤氏は全国人民代表大会を最高の国家機関とし、その代表(議員)の構成変化にふれている(私見では中国の最高権力機関は中共中央常務委員会である)。1978年から83年までは労働者代表と農民代表の合計が47.3%であった。しかし1998年から2003年ではその数値はわずか18.8%で、労働者農民の比重は28.5ポイントも下がっている事実を指摘し、「高い比重を占めるのは政府の官吏(全てが共産党員といっていい)であり、企業家(資本家)の比重も増えている。党大会の構成もほぼ同じ傾向である」という。

以上の議論からすれば、中国は資本主義化が後戻りできないところまで進んでいること、経済改革が労働者参加の方法をとっていないこと、さらに(聴濤氏は解放軍・秘密警察の存在を検討していないが)中国の支配階層は党官僚・資本家であるという結論に導かれると私は考える。

聴濤氏は「中国指導部の経済政策を決定しているのは近代経済学者であり、マルクス主義学者ではない……」という。これはまったくそのとおりで、この20年間経済体制改革の理論的基礎と政策の多くは、欧米留学帰りの新自由主義の影響が強い新制度経済学者が提供してきた。

新自由主義者は市場経済こそが企業と個人の自由な活動を保証し、能力を発揮する体制だと考え、政府の市場への介入は所有権保護やマクロ経済の安定など、市場が正常に動くための条件整備に限られると主張している。彼らのなかでは(一部のマルクス経済学者も含めて)市場経済への移行の過程で何を優先するかについては激しい論争があったが、計画経済に訣別することでは一致していた。

ところが市場経済への移行過程では、計画経済と市場経済、国有企業と非国有企業が併存して腐敗の温床となった。すでに1980年代二重価格制をとったために、国有企業が安価な計画価格で入手した物資を高く市場に流し、官僚のふところを肥やす現象を生んだ。これが「官倒爺」と呼ばれ、89年の天安門事件につながったことはご存知の通りである。

国有企業の民営化の過程でも、党官僚が非常に安価に企業の所有権を私物化することが多く、すでに2006年、個人資産1億元以上の億万長者は3220人、その9割が中共や政府の高級幹部の子女であった。金融・貿易・国土開発・大型プロジェクト・証券など政府による規制の強い分野では、企業の主要なポストが高級幹部の子弟によって占められていた(関志雄『中国を動かす経済学者たち』)。

この構造は、習近平政権によっておよそ3年にわたる腐敗追放が行われたいまも基本的に変らない。300家族の5000人で中国経済を動かしているということばがあるくらいだ(産経2016・2・14)。鄧小平の「先富論」は高級官僚から実践され、世界第2の国富は下層人民にいまだゆきわたらない。労農人民のための福祉政策は長い間政権担当者からかえりみられなかった。

聴濤氏は2013年からの「日中理論会議」の討論内容を紹介し、何回目かの会議のとき国有企業について、「(社会主義建設の)『管制高地』といわれる国有企業は……国家的・社会的見地からの目標がありその実現を基準としているのか、それとも採算性あるいは効率性の重視という観点から結局「収益」追求が基準になっているのかという質問をした」

答は要領を得ずあまりよくわからなかったそうである。問うまでもない。収益追求に決まっている。それがめぐりめぐって労農人民のために使われるなら問題はない。そうではないから問題なのである。目前の国有企業は高級官僚とそれに結びつく経営層の権益確保のための「管制高地」である。中国人学者の答えが要領を得ないのはやむをえない。

新制度経済学者は、中小企業の分野では民営化に進展が見られたが、大型国有企業では完成していない。企業と個人に公平な機会と自由を提供するためには、なお大型国有企業の民営化(株式の国家所有を50%以下にすることも含めて)は避けて通れないとみている。

聴濤氏は2015年9月の中共中央の「国有企業改革を深化するための指導意見」を「市場化を一層進め中国経済の成長を図る」ものと理解している。たしかに文言には企業改革がある。けれども私は「指導意見」は民営化を促進するのではなく、国有企業の(国際的)独占力の強化、「国進民退(市場における国有企業の支配拡大、民営企業の縮小)」をすすめるものだと思う(本ブログ「八ヶ岳山麓から(170)」参照)。

聴濤氏は、「指導意見」が企業経営にかんして企業党の責任者と企業責任者が同一人物であるべしとしていることについて、「国有企業改革の方法を示すものとのして重要である」との見解を示している。

だがこれをやれば、国有資本の特権を拡大することになり、現行の不公平な市場構造と利権構造が維持され、同時に中共中央は企業経営への干渉を強化して、政治権力を維持・安定させるのに役立てることができるのである(「経済」誌2016・1夏目論文参照)。私には党責任者が企業責任者だからといって、従業員ないし国民にとって有利なことをやるとは到底考えられない。

聴濤氏は、中国は資本主義化した道をさらに一層深化させる方向に進むのか、今後ある時点で社会主義的転換が起こるのか、と自問自答している。そして「当然転機が起ることを期待する。期待の論拠は中国が1949年に革命を成功させて以来、さまざまな事件を繰返してきたが、66年間、社会主義の理念を放棄したことはないという点である

このくだりにはびっくりする。「中共が支配しているから社会主義だ」というのと、「中共は社会主義の理念を放棄していないから、社会主義へやがて転換する」というのはよく似た理屈である。いずれの判断も、中共に労農人民の立場に立った社会改革の意志と能力があるという前提があってはじめて生まれるものである。論拠というにはあまりに脆弱である。聴濤氏は中共もまた変化したことにお気づきでない。中国の一般庶民はもちろん、権力のない何千万という下部党員もほとんどが内心では中共から距離を置いている現実をどうお考えだろうか。

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