キョウ へいわのけしき 
「ああやっと終わった、おれの命は助かった」
学生寮で「玉音」放送を聞いた後の何ともいえない
解放感……生涯忘れられないあの風景を原点に、
平和思想史、日本国憲法,歴史認識の課題を
自分史と重ねて綴っていく。


 
Blog「みずき」:「天皇の「おことば」を持ち上げて」いるのは誰か。それは第1にこの十年来、保阪正康氏や半藤一利氏の天皇礼賛言説のバリエーションでしかない「裕仁=平和主義者」論をリベラリストの論のようにもてはやし、自らも「天皇のお話も原発事故にも触れ真心のこもったもの。(略)それらに比べ、安倍首相の式辞は、原発に触れず復興は進んでいると。失望」と「天皇の「おことば」を持ち上げて安倍晋三ら右派政治家を批判する」を地でゆく言説を弄し、しまいにはこれまで拒否してきた天皇列席の国会開会式に参列して天皇に深々と頭を下げて敬礼するというところまで奈落した日本共産党を第一の戦犯として名指ししないわけにはいかないでしょう。その共産党は明白な明文改憲論でしかない「新9条論」を「護憲」の論のように強弁する新9条論者たち(小林節伊勢崎賢治今井一内田樹想田和弘孫崎享白井聡矢部宏治池澤夏樹加藤典洋高橋源一郎ら)と連携を強めようとしています。ゆき着く先は「新天皇は憲法を守れるのか」の著者の弓削達さんも言う「再び昭和の暗黒時代がひたひたと押しよせてくる」道といわなければならないでしょう。いまの共産党は戦前の社会大衆党が陥った誤りの道を再び繰り返そうとしています。もはや共産党は口先だけの「侵略戦争反対」政党に成り下がってしまったようです。やんぬるかな。

【再び昭和の暗黒時代がひたひたと押しよせてくるとき】

弓削達新天皇は憲法を守れるのか」『マスコミ市民』1989年4月号(弓削達『平和の景色 私の原点』岩波書店、1995年所収)から引用する(前掲書、193~207 頁)。こういう文章を読んでいると、天皇の「おことば」を持ち上げて安倍晋三ら右派政治家を批判する、といった類の言説が改めてアホらしく感じられる。現在の天皇が、弓削の言う意味で憲法を遵守する人物であるか、もしくは露骨な反動主義者であったならば、日本社会はここまで右傾化しなかっただろう
<皇太子明仁が皇位を継承し、新しい天皇となってから、これを書いている今日まで約3週間が経った。(略)新天皇は皇太子時代、1987年10月3日から10日まで訪米した。それを前にして9月28日、彼はアメリカの新聞、通信、放送、雑誌等の支局長クラスを東宮御所に招いて、それら外国人記者団から文書(英文)で出されていた質問事項に文書(英文)で答えた。そのなかで彼は、「天皇には、憲法で規定された国事行為以外にも、国家の象徴として行なうべき行為がある」旨、明言しているのである。まさに政権政党の解釈に従って「象徴としての公的行為」を堂々と前に押し出しているといわなければならない。この回答自体、きわめて政治的な憲法解釈の表明であり、これ自体が重大な政治的関与であることは明らかである。ということは、「日本国憲法を守る」と「おことば」で明言されても、象徴の枠をどんどんこえて公的行為を増加する方向で「守る」と言っている疑いが濃厚であり、新天皇が真に「みなさんとともに」(「おことば」)あろうとするなら、象徴天皇としてのあり方について、政府の有権的憲法解釈から自由になり、象徴の意味を国民主権を基本原則とする日本国憲法の精神にふさわしく厳格に見直す努力をしなければならない。

即位後「朝見の儀」で話された天皇の「おことば」のなかで問題になるもう一つの点は、父天皇を平和主義者としてたたえている点である。(中略)父親を平和主義者として敬うことは息子の自由な感情である。しかし、「おことば」のような国事行為のなかで、憲法遵守とのかかわりで強調されることは、それ自体きわめて政治的である。(略)憲法の政権政党と政権による有権解釈は、それ自体政治的であり、それを基礎に「象徴」が語り行なうことも政治的であり、反憲法的である。本稿ではそのことを象徴天皇の国事行為を中心に考えてきた。新天皇が一方では象徴としての枠を守ると言いながら、他方では「象徴としての地位を反映する公的行為」を憲法的とみなし、これを際限なく広げてゆくとき、憲法の生命たる国民主権はしだいに後退し、再び昭和の暗黒時代がひたひたと押しよせてくる。天皇が、憲法の定める国事行為のみを行ない(憲法第4条)、禁欲に徹底するとき、彼の憲法遵守の誓約は果たされることになる>(
金光翔「私にも話させて」2016年2月20日

【山中人間話】

Blog「みずき」:上記で批判されているツイートはおそらく下記の菅野完さんのツイートのことを指しているのでしょう。同氏のツイートに対しては私も下記のような違和を表明しています。「菅野完さんのサンダースの演説の完訳、それはそれとして了としたいが、完訳の前に据えられている前説の論には嫌悪感を覚える。予備選の今後の流れは常識的には筆者の「読み」のとおりになるのかもしれない。が、熱情のない単なる俯瞰は傍観者のそれでしかない。傍観者によって「革命」は起きはしない。」

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