キョウ こじんとしょかん

【国家責任と民衆責任】
さらに視野を広げて言えば、「慰安婦」徴集の場面にひたすら焦点を当て、事実上、拘禁状態の「慰安所」で、連日、多くの兵士相手に性交渉を強要された「慰安婦」の実態を直視せず、その事実に言及しようともしない安倍首相の一片の「お詫び」が元「慰安婦」に通じると考える方が不見識である。他虐を自虐と言いくるめる極右派ならともかく、リベラルを自認する論者や個人の尊厳を掲げる野党(Blog「みずき」:と、ここでは抽象的に述べていますが、共産党を念頭に置いているのはこれまでの記事から明らかです)が、これほどまでに「他者のまなざし」に無頓着な姿もまた、理性の「崩壊」とは言わないまでも、理性の「劣化」を意味することは間違いない。そのように劣化した理性が安倍外交に野党まで飲み込まれるという惨めな結果をもたらしているのである。
「国家責任と民衆責任」と題した徐京植氏と山田昭次氏との対話の中に次のようなやりとりがある。「徐 ところで、たとえば関東大震災の朝鮮人虐殺に関する先生の研究などについて、同じ研究者の間から、日本民衆に対して厳し過ぎるという批判もあったと聞き及びますが? 山田 そうですね。はっきりとはおっしゃいませんが、国家とか、軍隊の責任は追及するけれども、あまり民衆責任については言わない方が多いようですね。・・・だって、民衆責任の問題で一番大きいのは、民衆が国家責任について沈黙していることなんですよ。・・・・徐 企業だけでなく日本の民衆の大多数も近現代史を通じて国家との共犯関係を保ち続けているともいえますが、こうした共犯関係をきっぱり拒絶したのが金子文子だと考えていいでしょうか? 山田 そうです。国家はそういう人間を、歴史から抹殺してしまうわけです。なかなか国家との共犯関係をビシッと切れる日本人は少ないんですよ。」(徐京植『新しい普遍性へ――徐京植対話集』1999年、影書房、207~208ページ)

愚かな自虐史観に冒された持論を政略的に操作して、「慰安婦」問題を「不可逆的に」決着させるという安倍首相の外交戦略に易々と飲み込まれたリベラル左派の論者や野党の姿は、ふがいないで済む問題ではなく、加害国の国家責任を免罪する不作為を意味し、国家との共犯関係に通じる危うさをはらんでいるのである。

派は知らず流儀は無ければ我が歌は圧しつけられし胸の焔よ
燃え出づる心をこそは愛で給へ歌的価値を探し給ふな
真白なる朝鮮服を身に着けて醜き心をみつむる淋しさ
金子文子『獄中歌集』より)

醍醐聰のブログ 2016年1月26日

【安倍首相が全能感いっぱいで、爆走している】
安倍首相の様子がおかしい。自らを神格化し(天孫ニニギノミコトの生まれ変わり)、全能感いっぱいで、爆走している。国会での答弁風景も、誰もが「大丈夫か」と思う危険水域に入ってきた。ヤジを飛ばす、聞かれたことに答えない、はぐらかす、論点をすり替える、別の問題を延々としゃべり続ける・・・。とりわけ1月19日の参議院予算委員会の答弁には仰天した。福島瑞穂議員(社民党)が自民党改憲草案の緊急事態条項について、「ナチスの授権法〔全権委任法〕とまったく一緒だ」と追及すると、「緊急事態条項は諸外国に多くの例があり、そ・う・し・た・批・判・は・慎・ん・で・も・ら・い・た・い・」と述べたのである。議員に向かって、質問をするなと言ったに等しい。批判に対しては反論できる機会があるのに、批判を封じようとする発想は危ない。また、国会の審議は討論会ではない。国民の代表である国会議員の質問に答えるのは、行政府の長である首相の義務である。かつての首相たちもそれぞれに個性があって、時に感情が表に出ることはあった(例えば、吉田茂の「バカヤロー」のつぶやき。解散につながった)。私の記憶に鮮明なのは、安倍首相の大叔父の佐藤栄作の答弁である。怒りと不愉快な気持ちを押し殺して、相手をじっと見据え、「ご意見としてうけたまわっておきます」とか「私はか・よ・う・に考えております」等々、野党議員がどんなに激しい言葉で追及しても、腰は低く、やや上目づかいに、慇懃無礼感覚を全身で表現しながら答弁していた。野党議員に向かって「批判を慎め」といった首相はいなかった(1938年の衆議院国家総動員法委員会で、議員の質問に対して「黙れ」と叫んだ、陸軍省軍事課の佐藤賢了〔「東條の納豆」〕を彷彿とさせる)。(水島朝穂「今週の直言」2016年1月25日

【山中人間話】

カウンター・グループのお仲間、中沢けい氏は慰安婦問題をほとんど知らないだろう。慰安婦問題を意図的に無視するこのグループと同様に。

Posted by 酒井 克明 on 2016年1月26日
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