キョウ てんのうせい3

【27年前にも天皇明仁の「国政に関する政治的発言」はあった】
志位和夫委員長は、方針転換を明らかにした昨年12月24日の
記者会見で(略)「日本共産党としては、三十数年来の開会式での天皇発言の内容に、憲法上の問題がなくなっていることを踏まえ、今後、国会の開会式に出席する」と述べました。(略)1989年2月10日の第114回国会開会式で、天皇明仁は「お言葉」でこう述べました。「我が国は、今日まで、幾多の苦難を乗り越え、国民の英知とたゆまない努力により、国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました。内外の諸情勢が変動する中で、我が国は、国民福祉の一層の向上を図るため不断に努力するとともに、世界の平和と繁栄を目指し、自然と文化を愛する国家として広く貢献することが期待されています」(宮内庁HPより)1989年といえば、その前年1988年8月にリクルート事件が発覚し、12月には消費税法案が成立、89年4月から消費税がスタートするという政治状況の中で、自民党政治に対する不満・批判が高まっていた時です。まさにその時に、「国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました」という天皇明仁の言葉が、「自民党政府の内外政策を賛美・肯定する」「国政に関する政治的発言」でなくてなんでしょうか。この発言は27年前のものです。これでも「三十数年来問題ない」と言えますか?(略)
天皇の国会開会式出席が憲法から逸脱していることは憲法学上の定説です。「天皇を外交上元首として扱ったり、さらには制度化されていないいわゆる天皇の『公的行為』の拡大によって天皇の政治性、権威性をさらに高めようとする試みが行われている。その例としては、一九四七年以来の国会開会式への出席と『お言葉』の朗読・・・などをあげることができる」(舟越耿一著『天皇制と民主主義)憲法にない「公的行為」こそ、「天皇の政治性、権威性」を高め、天皇の政治利用を強めるための脱法手法にほかなりません。(略)憲法を逸脱したこうした天皇の「公的行為」の拡大、政治利用の強化、その行きつく先が、自民党改憲草案の「天皇元首化」であることは言うまでもありません。天皇の国会開会式出席は、その「形式」や「お言葉」の内容いかんにかかわらず、出席すること自体が「主権在民」に反し、「国事行為」から逸脱した憲法違反なのです共産党もかつてはそう主張していたではありませんか。安倍政権がいよいよ天皇元首化の改憲に乗り出そうとしている時、共産党の方針転換とは逆に、天皇の「政治性・権威性」の拡大・政治利用を図るあらゆる策動に反対し、阻止することがますます重要になっています。(アリの一言 2016年01月05日

Blog「みずき」:上記も2016年1月7日付けの「山中人間話」欄でご紹介させていただいているものですが、改めて「今日の言葉」(ブログ記事)としても掲載させていただこうと思います。

【全文】
4日、日本共産党は結党以来初めて党の方針として、天皇が出席する国会開会式に出席しました。この方針転換はきわめて不可解であり、94年の党史に大きな汚点を残すものと言わざるをえません。同時に、自民党が「天皇元首化」を図ろうとしているまさにその時だけに、たんに共産党の問題にとどまらない重大性を持つものとして見過ごせません。

志位和夫委員長は、方針転換を明らかにした昨年12月24日の記者会見で、これまで欠席してきた理由として「おもに二つの点」を挙げました(以下、引用はすべて同12月25日付「赤旗」より)。

「第一に、開会式の形式が、『主権在君』の原則にたち、議会は立法権を握る天皇の『協賛』機関にすぎなかった、戦前の大日本帝国憲法下の『開院式』の形式をそのまま踏襲するものになっているということ」(以下A)

「第二に、以前の開会式では天皇の『お言葉』のなかに、米国政府や自民党政府の内外政策を賛美・肯定するなど、国政に関する政治的発言が含まれていました。これは、日本国憲法が定めている、天皇は『国政に関する権能を有しない』という制限規定に明らかに違反する」(以下B)

Aは「現在においても変わりがない」が、Bは「天皇の発言に変化が見られ、この三十数年来は、儀礼的・形式的なものとなってい」るとし、「日本共産党としては、三十数年来の開会式での天皇発言の内容に、憲法上の問題がなくなっていることを踏まえ、今後、国会の開会式に出席する」と述べました。

まず、これまで欠席してきた「2つの理由」のうち、1つ(B)が仮に「問題ない」としても、もう1つ(A)は問題があるままです。それは共産党自身認めているのです。つまり天皇出席の開会式に憲法上の疑義があることは解消されていない。それなのになぜ「欠席」から「出席」へ方針転換できるのでしょうか。

開会式出席後の記者会見で、志位氏は、「高い玉座が設けられ(天皇の)お言葉を賜るという形式は日本国憲法の主権在民の原則に反する」(5日付朝日新聞)と繰り返し、「改善を求めつつ出席を続ける」(同)考えを示しました。共産党が求める「改善」とは何ですか?「玉座」も「お言葉」もない天皇の出席がありうると考えているのですか?12月24日の記者会見で、「開会式の改革を実現するうえでも出席するとはどういうことか」と聞かれた志位氏は、「わが党が天皇制反対という立場で欠席しているとの、いらぬ誤解を招」くからだと答えました。この「理屈」にどれだけの人が納得するでしょうか。いま共産党に問われているのは、天皇制自体の賛否ではなく、「戦前の大日本帝国憲法下の『開院式』の形式をそのまま踏襲する」(A)開会式になぜ出席するのか、ということです。

次に、共産党が方針転換した理由のBはどうでしょうか。1989年2月10日の第114回国会開会式で、天皇明仁は「お言葉」でこう述べました。「我が国は、今日まで、幾多の苦難を乗り越え、国民の英知とたゆまない努力により、国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました。内外の諸情勢が変動する中で、我が国は、国民福祉の一層の向上を図るため不断に努力するとともに、世界の平和と繁栄を目指し、自然と文化を愛する国家として広く貢献することが期待されています」(宮内庁HPより)

1989年といえば、その前年1988年8月にリクルート事件が発覚し、12月には消費税法案が成立、89年4月から消費税がスタートするという政治状況の中で、自民党政治に対する不満・批判が高まっていた時です。まさにその時に、「国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました」という天皇明仁の言葉が、「自民党政府の内外政策を賛美・肯定する」「国政に関する政治的発言」でなくてなんでしょうか。この発言は27年前のものです。これでも「三十数年来問題ない」と言えますか?

さらに重大なのは、天皇の国会開会式出席が憲法上問題なのは、共産党がいうAとBだけではないということです。憲法第4条は、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と厳格に定めています。そしてその「国事行為」は、第6条(①首相任命②最高裁長官任命)と第7条の10項目に明記されています。天皇の国会出席・「お言葉」はそのどこにも記されていません。第7条の2項目に「国会を召集すること」とありますが、これと開会式出席は別です。宮内庁は「天皇陛下のご活動」の説明で、「国事行為に関連して、国会開会式に毎回ご出席になる」(HPより)としています。「関連して」と言わざるをえないのは、それが国事行為でないことが分かっているからです。

天皇の国会開会式出席が憲法から逸脱していることは憲法学上の定説です。「天皇を外交上元首として扱ったり、さらには制度化されていないいわゆる天皇の『公的行為』の拡大によって天皇の政治性、権威性をさらに高めようとする試みが行われている。その例としては、一九四七年以来の国会開会式への出席と『お言葉』の朗読・・・などをあげることができる」(舟越耿一著『天皇制と民主主義』)

憲法にない「公的行為」こそ、「天皇の政治性、権威性」を高め、天皇の政治利用を強めるための脱法手法にほかなりません。「3・11」東日本大震災直後の天皇の「ビデオメッセージ」以降、とくにその拡大を図ろうとする動きは顕著です。来る「フィリピン訪問」もその1つです。「赤旗」(4日付)は、安倍政権・防衛省が、統幕議長や陸幕長を天皇の「認証」を受ける「認証官」に“格上げ”することを検討しているとスクープしましたが、これも天皇の政治利用策動の一つです。憲法を逸脱したこうした天皇の「公的行為」の拡大、政治利用の強化、その行きつく先が、自民党改憲草案の「天皇元首化」であることは言うまでもありません。

天皇の国会開会式出席は、その「形式」や「お言葉」の内容いかんにかかわらず、出席すること自体が「主権在民」に反し、「国事行為」から逸脱した憲法違反なのです。共産党もかつてはそう主張していたではありませんか。安倍政権がいよいよ天皇元首化の改憲に乗り出そうとしている時、共産党の方針転換とは逆に、天皇の「政治性・権威性」の拡大・政治利用を図るあらゆる策動に反対し、阻止することがますます重要になっています。アリの一言 2016年01月05日


【山中人間話】
 

Blog「みずき」:代執行訴訟の多見谷寿郎裁判長は「千葉地裁で、三里塚の天神峰の市東孝雄さんの農地取り上げ裁判で、成田空港会社(NAA)の違法行為を不問に付しつつ、不当判決を出した人物(13年7月)。文字通りの「国策裁判官」です。「わたしは成田問題の重要性を承知している」としつつ、後半は空港会社ペースの訴訟指揮を展開していきました」という指摘があります。安易に裁判長の訴訟指揮を楽観視することは要注意というべきでしょう。
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