キョウ スガワラ(3)

Blog「みずき」:辺見庸の「日録1」の2015/11/24の記に次のようなくだりがあります。「道新インタビュー。/『1★9★3★7』のこと。付箋をたくさんつけた本をもってきている。読んでどうおもったのか、なにも言わない。面白かったのか面白くなかったのか。じぶんのことはなにも言わない。/。北の大地の、さいはての役場の書記なら、なにか言う。このインタビューは「小さな記事」にするという。(略)「赤旗」のことはなにも訊かれない。知らないのかもしれないし、知っているのだが、訊かないのかも知れない。(略)安倍晋三はまだしもりっぱだよ。命がけだもの。ちっとも命がけじゃないハナクソどもが、大いに命がけのファシストに勝てるわけもないじゃないか。と言ったら、記者、おどろいて顔をあげ、また顔をふせて、メモをとってる。発狂ジジイの話をメモってやがる。/新聞に載せる気もないくせに」。

この書評記事を書いた道新記者がおそらく辺見にクソミソに書かれたインタビュアなのでしょう。あるいは辺見にクソミソに言われて意気阻喪した若い記者のピンチヒッターとして立った優しき編集委員の手によるものか? いずれにせよ、いささか距離を置いた批評のように見えるのはそのせいでしょう。かつて小林秀雄は批評という行為について次のように書きました。「批評するとは、他人の作品をダシに使つて自己を語る事である」(「アシルと亀の子」昭和5年)、と。そうであれば、いささか距離を置いた書きぶりの評者の姿勢もまた「自己を語る」ひとつのなにがしかの「語りえないもの」の仕草ということにもなるでしょう。

【自分も先は長くない。書くべきことは書いておかなければならないと思った】
78年前のきょう、1937年(昭和12年)12月13日、旧日本軍は中国・南京に侵攻し、おびただしい数の中国人を殺し、略奪し、強姦した。だがその事実は今、歴史修正主義によりなかったことにされようとしている。
本書は反骨の作家南京大虐殺を直視し、日本人の加害責任を問い直した臓腑に響く論考である。
自分の内側からの、内発的な力に駆られて書いた。ぼく個人の総括です」。父は皇軍兵士として中国で戦った。その記憶は戦後、息子に引き継がれた。「父が中国で経験した痕跡みたいなものをずっと封印してきたが、自分も先は長くない。書くべきことは書いておかなければならないと思った」。筆を執ると、止まらなくなった。1937年。札幌―東京間に定期航空路が開設された年。プロ野球のオールスター戦が初めて行われ、横綱双葉山の活躍に国民が熱狂した年。「戦争が始まるなんて誰も思わなかった。総選挙も行われた。民主主義がなかったわけじゃない」。だが、日中戦争が7月に勃発、その後、近衛内閣国民精神総動員実施要綱を閣議決定し、世の中は急速に変わった。日常の中からふっと戦争が立ち上がり「1937」は「征(い)くみな」という不吉な意味を帯び始めた。

作家は、南京大虐殺を中国人の視点から描いた
堀田善衛の小説「時間」を縦糸に、自身の私的な時間を横糸に考察を進める。「堀田は、やられた方はやった方にどういう視線を向けたかを考えた。いわば『目玉の入れ替え』を行った。日本人には今もできないことだ」。その一方、自らにも問いを突きつけた。もし自分がそこにいたら、中国人を突き刺す訓練を拒めたか。「何もしないで帰って来たとは思えない」。復員した父は人が変わったようだったという。1944年、宮城県石巻市に生まれた。共同通信の記者時代、北京特派員を2度、計6年経験した。「南京大虐殺記念館ができるという記事はぼくの特ダネだった。書いた以上、責任の一端はある」。

本書に続いて「
もう戦争がはじまっている」(河出書房新社)を刊行、きな臭い時代に警鐘を鳴らし続けている。欧米のジャーナリストが「人間の想像力の限界が試される」と評した南京大虐殺。その蛮行を引き起こした日本人の心性について、作家は論考の終盤で「一億総懺悔」という言葉に言及する。「敗戦の責任はわれわれ国民にあって、天皇陛下に申し訳ないと土下座する。ドイツやイタリアではありえない」(島倉朝雄「北海道新聞」2015/02/13

【山中人間話】

まだ良識が機能しているフランスと、トランプ人気が衰えないアメリカと、デモクラシーが死につつある日本と……

Posted by 金平 茂紀 on 2015年12月13日

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