キョウ 流砂

Blog「みずき」:私は辺見とともに共産党という「世間」への「怒り」をともにします。辺見はこの件について「もっともっとかんがえつづけるだろう」という。再開後のブログには「かんがえつづけ」た考察があらたに書き加えられることになるでしょう。その日を俟ちたいと思います。


いつまでもこうしているわけにはいかない。ないものにたいしいらだった。あるいは、なにもないふりをするものに、血管が切れるほど怒った。どうしようもない「鬆」(す)に憤慨しつづけた。しかし、なにもおきてはいない。だれもが無関係をよそおう。顔をみせない。声をあげない。責任はどこにもないふりをする。
うちあわせたように全員がそうする。全員が演じるでもなくみごとに演じきる。怒るほうがおかしい。声を荒げるほうにまちがいがある。沈黙をきめこむほうに分がある。「要するに砂が悪いのだ。我々の不毛の原因は、すべて砂にある」とは、むかし花田清輝が言った皮肉だった。「蟻地獄でさえも、砂と縁を切ればウスバカゲロウになり、自由自在に空中を飛翔する……」と。ほんとうは流砂をあゆむひとの問題なのに、ひとはすべてを砂のせいにする。砂にまみれてもがき、砂を食い、やがてはひとも砂になる。内蔵も骨も白い砂になる。それが「解決」だ。解決とはつまり死だ。無だ。日本共産党とその機関紙は砂漠である。蟻地獄である。

阿部謹也ふうに言うなら、共産党は、「世間」以上に無責任な俗世間であり、「世間」以下的に酷薄で恥知らずで鈍感な世間である。共産党はじつは似ているのだ、われわれに。われわれの会社と。われわれの仕組みに。ときにそれは合唱団となり愛国をうたい、ときにそれは町内会、自治会、自警団となり、「個」をどこまでもむしばむ。わたしは「ないもの」だけをたんとみた。どうしようもない「鬆」のみを、これでもかこれでもかとみせつけられた。「ないもの」と「鬆」は党だけのものではなく、党を批判する(ふりをする)わたしとわたしの隣人、友人たちの骨身にもはしる無数の空洞であることもおもいしった。少しずつみんなで卑劣になろう。そうすれば卑劣にはみえないのだから。どこにも主体はない。責任はない。だから恥もない。このかん、わたしの視界から音もなく何人かが消えていった。ずいぶん若いくせに、だれに習ったか、年寄りじみたすり足で消えた。ひとことの挨拶もなく。追うまい。怒るまい。だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。わたしは『1★9★3★7』(イクミナ)増補版の原稿を書かなくてはならない。今月19日の横浜講演の準備もしなければならない。ブログはしばらく休む。だからといって、あのドタキャン事件をわすれることはない。だんじてない。「ないもの」と「鬆」、まん延するvoidについて、もっともっとかんがえつづけるだろう。(辺見庸「日録2」2015/12/12
関連記事
Secret

TrackBackURL
→http://mizukith.blog91.fc2.com/tb.php/1679-90605160